『足利氏満とその時代』(関東足利氏の歴史)
『足利基氏とその時代』(関東足利氏の歴史)
仮想通貨が「通貨」として普及しえない、たった1つの理由
授戒会に参加してきました
先週、京都は嵯峨にある清涼寺で行われた「授戒会」というものに参加してきました。日本国民の多くは仏教徒であると言われているにも関わらず、日常の生活の中で仏教と触れ合う機会はそんなに多くありません。そこで、授戒会において「仏教とは何か?」の初歩の初歩を学んできました。
授戒会の内容は非常に面白いものであり、ぜひ多くの皆さんに自分と仏教との関係を考える機会を持ってもらいたいと思い、自分の経験をブログにまとめることしました。
授戒会の内容は非常に面白いものであり、ぜひ多くの皆さんに自分と仏教との関係を考える機会を持ってもらいたいと思い、自分の経験をブログにまとめることしました。
日本の決済の歴史を振り返る ~古代編
いつも愛用しているNewsPicksで「フィンテックの真贋」という楽しみな連載が始まりました。しかし、残念ながら初回の日本の決済の歴史のまとめは、かなりの説明不足があり、多くの人に誤解を与えかねないと感じています。そこで、自分へ整理も含めて改めて日本の決済の歴史を何回かに分けて振り返ってみたいと思います。まずは皇朝十二銭に代表される古代の話です。
サラリーマンのための歴史 『ゴッド・ハンド』事件とはなんだったのか
2000年11月に毎日新聞が「旧石器捏造事件」をスクープしました。当時、僕は大学4年生で卒論提出の一ヶ月前でした。僕の研究テーマは縄文時代だったので影響は受けませんでしたが、旧石器時代の研究をしていた同期の中には論文の根拠が瓦解した人もおり、大変なインパクトがありました。
2015年面白かった本 トップ5
2016年の年も明けてしまいましたが、昨年読んだ本の中で特に面白かった書籍たちを一行コメントつきで紹介していきます。それぞれ、画像がリンクになっていますので興味があればポチってみてください。
サラリーマンのための歴史 外様と維新
前回の記事が比較的好評だったので、今回はファンも多い幕末の流れを中心に『外様大名』とは何かについてビジネス用語を使って説明したいと思います。前回もそうでしたが、あくまで歴史の流れを知ってもらうために、現代のビジネスに置き換えた表現をしていますので、細部については必ずしも正確ではない点をご了承ください。
サラリーマンのための歴史 頼朝と義経
「名前」から世界を見てみる
先日、「沖縄の基地問題は『沖縄』という名前が使われているうちは良いが、これが『琉球』といわれだすと問題の深刻さが一段階進むかもしれない」といったような事を酒の席で話したら、なんだか妙に納得してもらえたので、国や地域の「名前」から世界を見てみました。
中東問題を理解するための補足「ドゥライム族」のについて
昨日書いたブログが思いのほか好評で、多くのアクセスがあったことに興奮しております。そんな中、News Picksのコメントで「図表がもっとほしい」という声がありましたので、いくつか図表を交えて、中東問題をもう少し理解するための補足をしてみようと思います。
シリアの歴史
2015年11月13日にパリで悼ましいテロ事件が発生しました。年初のシャルリー・エブド襲撃事件もあり、シリアをめぐるテロ事件の多くはフランスで起きている印象があります。中東の歴史というとイギリスの影響が強い印象がありますが、自分の復習含めて、改めてフランスとシリアがどのような関係を構築してきたのかを整理してみました。
「歴史修正主義」とは何か
先日、ユネスコのが登録されたということで、僕の愛用しているNewsPicksにおいても大きく議論になっていました。その中で、識者同士が「歴史修正主義」について熱くやりあっていたのですが、どうも歴史学における歴史修正主義というものの定義が曖昧であるがゆえに歴史学を学んだ人と、そうでない人の間において根本的な理解の相違があるように感じました。そこで、僕自身まだ歴史学とは何かを学んでいる途上ではありますが、歴史修正主義とは何か、自分なりの考えを整理してみました。
夫婦別姓に関して思うこと
いつも愛用しているNewsPicksでハフィントンポストの「夫婦別姓問題」に関する記事のPickがあり、結構なコメントがついていました。僕は「夫婦別姓」については論じるまでもなく賛成ですが、「夫婦で異なる名字」については反対です。それよりも「氏名」以外の名前の持ち方を認めるべきというとこが僕の考えの骨子です。
今更ながら僕が安保法制に反対する理由
何だかもう過去の話だと割り切っていたのですが、いまだに安保法制についての反対運動が盛んですね。せっかくなので、自分の考えを個々で整理しておきたいと思います。
僕は歴史好きをやっている手前、物事を長いスパンで見る傾向にあります。なので、今回の安保法制も50年、100年のスパンで見て適切かを考えてしまいます。また、国家と自分とを同一視していません。国が滅びても、自分と家族の生活が守れていれば良いと考える極めて利己的で冷淡な人間です。「お国のため」というロマンに浮かれることがありません。
そんな僕から見て、今回の安保法制には大きく2つの問題点が考えられます。この2点を解消しない限り、僕は安保法制には反対を唱えます。
集団的自衛権のパートナーが制限されていない。
1つ目は集団的自衛権を行使するパートナーが制限されていない点です。安保法案を一言一句目を遠したわけでもなければ司法試験に合格したわけでも無いので、法解釈に誤りがあるかもしれませんが、僕がざっと目を通した限り、集団的自衛権の行使の範囲を「アメリカ合衆国軍に限る」や「国連軍に限る」といった制限をする法律は見当たりませんでした。
改正法の中には、「武力攻撃事態等及び存立危機事態におけるアメリカ合衆国等の軍隊の行動に伴い
題名
我が国が実施する措置に関する法律」であったり、「国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律」といった法律はありますが、「集団的自衛権の行使範囲を制限する法律」が見当たりませんでした。
このパートナーの制限は非常に重要であると考えています。かつて日本は「中華民国汪兆銘政権」という傀儡政権を作り上げました。そして、「中華民国の正当な政府に協力して、国内にいる反政府ゲリラ(国民党、共産党)を駆逐する」という建前をとりました。ですので、実は日中戦争といわれているものの、正式な戦争関係にあったわけではありませんでした。
同様に将来において覇権主義を標榜する団体が世論を誘導して、再び海外への進出を試みた際に、その地に傀儡政権を樹立させ、それを保護する名目で集団的自衛権を行使して軍事侵攻が可能な仕組みになったのではないかと危惧しています。アメリカはCIAを使って、よくこういう工作をやっていますよね。イラクやウクライナ、コソボなどで。
今現在は、そんな心配ないでしょう。でも50年後も大丈夫だって言い切れますか?でも、今回の安保法制って変更しなければ50年後も100年後も有効なんですよね。
武力行使の要件が閣議で決定できる。
もっと危惧しているのでは、「武力の行使の新三要件」です。これ、立憲主義がどうとか言う以前の問題として、日本国憲法の今回である「平和憲法」を完全に無効化した、恐るべき内容であると感じています。
というのも、今回の安保法制において、各法律が改正されている中では、各種条件に「存立危機事態」という表現を用いています。存立危機事態において日本国は武力行使が許されているとなっています。では、その「存立危機事態」とはどういう事態なのでしょうか?それを定義しているのが2014年に閣議決定された「武力の行使の新三要件」です。
憲法でも法律でもなく、閣議で決定されているんです。ということは、閣議で変更が出来るということです。50年後の覇権主義内閣において、閣議決定で「武力の行使の新新三要件」と称して以下のように変更することが出来てしまうということです。
(1)我が国、又は
我が国と密接な関係にある地域に対する武力
攻撃が発生する明確な危険があり、これにより我が国の存立が脅か
され、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が
根底から覆される重大な懸念があること
(2)これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を
守るために他に適当な手段がないこと
(3)必要最大限度の実力行使によって短期間での事態可決をはかること
もちろん、そうならないために、国民が選挙によってきちんとした政治家を選ぶことが大切ですね。
国民国家と王族
いわゆるイスラム国の台頭やグローバルカンパニーとの徴税権の争いなど2010年代に入って国民国家が相対的になってきたと考えています。しかしながら、政治学などの社会科学は国民国家を前提として発展してきたがために、新しい時代の価値観を図りかねているのではないか、と個人的に感じています。そこで、国民国家ってそもそも何なんだろうか?という問題提起を行いたいと思います。
天皇家と日本人
日本では天皇家は日本人であり、日本国民も日本人です。王族と国民とが同じ民族であるのが当然と考えられています。この考え方は天地開闢以来の常識であったわけではなく、明治新政府が国民国家を建設するにあたって、天皇を国家の象徴として祭り上げ、臣民=日本国民としての教育・宣伝を行ってきた成果によるものです。
江戸時代までの日本は武士が政治を行っており、国民にとって天皇というのは存在するらしいが、実態が良くわからないものでありました。多くの国民は自分を日本人と考えていたわけではなく、薩摩人、土佐人あるいは多摩人といった形で、自分の生活する領域でもって自己の民族的アイデンティティを持っていました。彼らにとって支配者というのは結局のところ余所者であり、それが誰であろうと多くの民衆には関係の無いものでした。
江戸時代の藩だと薩摩の島津家、加賀の前田家のように一つの家系が同じ地域を長年にわたって支配してきた地域が著名となりますが、実際には多くの領地が頻繁に支配者を変えていました。たとえば、今のさいたま市岩槻区にあたる岩槻藩の場合、高力家、青山家、阿部家、板倉家、戸田家、藤井松平家、小笠原家、永井家、大岡家と異なる領主により支配を受けていました。こうなると岩槻の人々は自分たちと領主とを同じ共同体の人とは考えなくなります。
この状況でもし、幕府が一部の藩を外国人に与えていたらどうなったでしょうか?たとえば、幕末の医師シーボルトがもし追放されていなかったら、どこかにシーボルト家を藩主とする藩が出来ていたかもしれません。この時、その地域の農民たちは自分たちが異民族による支配を受けると考えてでしょうか?
という仮定の話をすると大げさに思えるかもしれません。しかし、これが実際に起きたのがインドです。1765年にイギリス東インド会社はムガール帝国との協定よりベンガル州の太守となりました。このことが後のイギリスのインド支配への布石となっていくわけですが、この時にインド民族の危機を認識した人はいませんでした。なぜなら、ムガール帝国そのものがモンゴル人やトルコ人などの異民族によって支配されている国家だったからです。先ほどの岩槻の例でいえば、岩槻の支配者はたまたま三河という比較的近い距離だったにすぎず、民衆の意識としては余所者が支配しているという点において同様でした。イギリスの支配はインドに限らず、同様な形で中国や中東でも支配権を確立していきます。
切り取られた帝国
世界四大文明と呼ばれた地域を支配していた、清、ムガール帝国そしてオスマントルコは奇しくも、いずれも異民族による征服王朝でした。そのため支配者と非支配者との間に同じ国民としての連帯感が生まれにくい状況でした。イギリスはその隙を突いて帝国を切り取っていきます。明治新政府の人々は、その現状を目の当たりにし、「日本国民」としてのアイデンティティの確立が無ければ国家の統一は難しいとの危機感を持ち、天皇に現人神としての神聖性を与えて国家神道によって
日本国民を生み出しました。
一方で、先ほどの3帝国はどうなったでしょうか?イギリスあるいはフランスなどと組んだ各地の有力者が列強の軍事力を背景に独立を果たしていきます。しかし、そこには国民国家としてのアイデンティティはありませんでした。
オスマントルコの事例でいけば、イギリスの後援を背景にエジプトを独立させたムハンマド・アリーはギリシャ出身のアルバニア人ですし、ヨルダン王国もまた元々はメッカの太守でした。オスマントルコ崩壊の中でのイギリスやフランスの暗躍が今の混乱の元凶となったのは周知の事実です。
中国においても清朝の崩壊と共に多数の軍閥が群雄割拠する時代となりました。外モンゴルはソ連の軍事支援の元で独立し、内モンゴルは日本の支援での独立を試みるも頓挫、東トルキスタンやチベットにおいても分離独立運動は失敗しました。インドは既に3つの国に分離され、その過程で多くの人命が失われました。いずれの国も国家の分裂や再統合という激動に見舞われることとなりました。
西洋各国と王族
と、日本やアジアの国々の事例を紹介してきましたが、「いやいや、そういうのは前近代の話でしょ。」と思われる方も多いと思いますので、ここで西洋各国の王族を振り返ってみましょう。
まずはイギリスを見てみましょう。今のウィンザー朝はドイツのハノーバーから来た一族です。その前はオランダの支配者であるオラニエ公ウィレム3世を挟んで、スコットランドのステュワート朝がありました。更にその前はフランスのアンジュー伯を祖とするアンジュー朝が、その前は同じくフランスのノルマンディーから来たノルマン朝が支配していました。つまるところ、イングランドの歴史の多くは、そして今現在も、外国人が王位についてきたのです。まあ、これもハノーバー朝が出来たのが1714年ですから、国民国家が形成される以前の話と切り捨てることが出来るかもしれません。
そこで、次はデンマーク王家の話です。今のデンマーク王家であるグリュックスブルク家は1863年にクリスティアン9世が前王フレゼリク7世が死去した際に、遠縁にあたるということでデンマーク王家を継承することとなりました。時に19世紀半ばで、日本では幕末の志士たちが活躍していた時代です。その息子のゲオルギオス1世はギリシャ国王になりました。これは先代のギリシャ国王が議会と対立して追放され、その後任としてゲオルギウス1世が招聘されたためです。この時点で、彼はギリシャとは何の縁もゆかりもありません。さらに1905年にはノルウェーがスウェーデンとの同君連合を解消して独立しました。この時に、クリスティアン9世の孫がホーコン7世としてノルウェー国王となりました。既に20世紀になった話です。
つまり西洋社会においても国王や貴族というのは、その血筋の高貴さによって選ばれるものであり、その国家の民族とは何の関係も無いということです。これはベルギー国王がザクセン王家から来ていること、スペイン国王はフランス・ブルボン家の出身であることなどからも挙げられます。
国民国家と徴兵制
で、結局僕が何を言いたいかと言うと、「国民国家」という概念は国家の支配者が国民よく馴致するための方便ではないかということです。
そもそも、国民国家が生まれたのはフランス革命期です。フランス革命によってブルボン王朝を滅ぼしたことにより、諸外国との緊張関係が生まれました。国王が支配する国において軍隊とは国王の軍隊です。しかし、フランス革命によって王家が無くなったフランスでは外国と戦う軍隊がありませんでした。しかも、国民の多くは革命政府だろうが、ブルボン王朝だろうが、支配者に興味はありません。革命政府の指導者たちは、自己の政権を守るために「フランス国民」という概念を持ち出し国民のための軍隊によって外国勢力を排除しようと考えました。
これは明治初期の日本が「日本人」という概念を生み出し、軍隊を「藩主の私有物」から「天皇の軍隊」と変貌させ、そのための実行力として徴兵制を導入したことからも見て取れます。
今、集団的自衛権がもてはやされ、国を守ることの重要性が喧伝されています。しかしながら、日本民族であることと、日本国民であることは同一なのでしょうか?僕は日本民族であり、日本国民でありますが、父は日本民族であり、満洲国民でした。国家は滅びても人生は続きます。果たして、国家と自己とを同一視することが一般民衆にとって適切な考え方なのかは、非常に疑問に感じています。国家を運営する側のエリート階級の人々が自己と国家を同一視することは十分に理解できますが、一般大衆は彼らのアジテーションをもっと冷淡に見つめる必要があるのではないでしょうか。
天皇家と日本人
日本では天皇家は日本人であり、日本国民も日本人です。王族と国民とが同じ民族であるのが当然と考えられています。この考え方は天地開闢以来の常識であったわけではなく、明治新政府が国民国家を建設するにあたって、天皇を国家の象徴として祭り上げ、臣民=日本国民としての教育・宣伝を行ってきた成果によるものです。
江戸時代までの日本は武士が政治を行っており、国民にとって天皇というのは存在するらしいが、実態が良くわからないものでありました。多くの国民は自分を日本人と考えていたわけではなく、薩摩人、土佐人あるいは多摩人といった形で、自分の生活する領域でもって自己の民族的アイデンティティを持っていました。彼らにとって支配者というのは結局のところ余所者であり、それが誰であろうと多くの民衆には関係の無いものでした。
江戸時代の藩だと薩摩の島津家、加賀の前田家のように一つの家系が同じ地域を長年にわたって支配してきた地域が著名となりますが、実際には多くの領地が頻繁に支配者を変えていました。たとえば、今のさいたま市岩槻区にあたる岩槻藩の場合、高力家、青山家、阿部家、板倉家、戸田家、藤井松平家、小笠原家、永井家、大岡家と異なる領主により支配を受けていました。こうなると岩槻の人々は自分たちと領主とを同じ共同体の人とは考えなくなります。
この状況でもし、幕府が一部の藩を外国人に与えていたらどうなったでしょうか?たとえば、幕末の医師シーボルトがもし追放されていなかったら、どこかにシーボルト家を藩主とする藩が出来ていたかもしれません。この時、その地域の農民たちは自分たちが異民族による支配を受けると考えてでしょうか?
という仮定の話をすると大げさに思えるかもしれません。しかし、これが実際に起きたのがインドです。1765年にイギリス東インド会社はムガール帝国との協定よりベンガル州の太守となりました。このことが後のイギリスのインド支配への布石となっていくわけですが、この時にインド民族の危機を認識した人はいませんでした。なぜなら、ムガール帝国そのものがモンゴル人やトルコ人などの異民族によって支配されている国家だったからです。先ほどの岩槻の例でいえば、岩槻の支配者はたまたま三河という比較的近い距離だったにすぎず、民衆の意識としては余所者が支配しているという点において同様でした。イギリスの支配はインドに限らず、同様な形で中国や中東でも支配権を確立していきます。
切り取られた帝国
世界四大文明と呼ばれた地域を支配していた、清、ムガール帝国そしてオスマントルコは奇しくも、いずれも異民族による征服王朝でした。そのため支配者と非支配者との間に同じ国民としての連帯感が生まれにくい状況でした。イギリスはその隙を突いて帝国を切り取っていきます。明治新政府の人々は、その現状を目の当たりにし、「日本国民」としてのアイデンティティの確立が無ければ国家の統一は難しいとの危機感を持ち、天皇に現人神としての神聖性を与えて国家神道によって
日本国民を生み出しました。
一方で、先ほどの3帝国はどうなったでしょうか?イギリスあるいはフランスなどと組んだ各地の有力者が列強の軍事力を背景に独立を果たしていきます。しかし、そこには国民国家としてのアイデンティティはありませんでした。
オスマントルコの事例でいけば、イギリスの後援を背景にエジプトを独立させたムハンマド・アリーはギリシャ出身のアルバニア人ですし、ヨルダン王国もまた元々はメッカの太守でした。オスマントルコ崩壊の中でのイギリスやフランスの暗躍が今の混乱の元凶となったのは周知の事実です。
中国においても清朝の崩壊と共に多数の軍閥が群雄割拠する時代となりました。外モンゴルはソ連の軍事支援の元で独立し、内モンゴルは日本の支援での独立を試みるも頓挫、東トルキスタンやチベットにおいても分離独立運動は失敗しました。インドは既に3つの国に分離され、その過程で多くの人命が失われました。いずれの国も国家の分裂や再統合という激動に見舞われることとなりました。
西洋各国と王族
と、日本やアジアの国々の事例を紹介してきましたが、「いやいや、そういうのは前近代の話でしょ。」と思われる方も多いと思いますので、ここで西洋各国の王族を振り返ってみましょう。
まずはイギリスを見てみましょう。今のウィンザー朝はドイツのハノーバーから来た一族です。その前はオランダの支配者であるオラニエ公ウィレム3世を挟んで、スコットランドのステュワート朝がありました。更にその前はフランスのアンジュー伯を祖とするアンジュー朝が、その前は同じくフランスのノルマンディーから来たノルマン朝が支配していました。つまるところ、イングランドの歴史の多くは、そして今現在も、外国人が王位についてきたのです。まあ、これもハノーバー朝が出来たのが1714年ですから、国民国家が形成される以前の話と切り捨てることが出来るかもしれません。
そこで、次はデンマーク王家の話です。今のデンマーク王家であるグリュックスブルク家は1863年にクリスティアン9世が前王フレゼリク7世が死去した際に、遠縁にあたるということでデンマーク王家を継承することとなりました。時に19世紀半ばで、日本では幕末の志士たちが活躍していた時代です。その息子のゲオルギオス1世はギリシャ国王になりました。これは先代のギリシャ国王が議会と対立して追放され、その後任としてゲオルギウス1世が招聘されたためです。この時点で、彼はギリシャとは何の縁もゆかりもありません。さらに1905年にはノルウェーがスウェーデンとの同君連合を解消して独立しました。この時に、クリスティアン9世の孫がホーコン7世としてノルウェー国王となりました。既に20世紀になった話です。
つまり西洋社会においても国王や貴族というのは、その血筋の高貴さによって選ばれるものであり、その国家の民族とは何の関係も無いということです。これはベルギー国王がザクセン王家から来ていること、スペイン国王はフランス・ブルボン家の出身であることなどからも挙げられます。
国民国家と徴兵制
で、結局僕が何を言いたいかと言うと、「国民国家」という概念は国家の支配者が国民よく馴致するための方便ではないかということです。
そもそも、国民国家が生まれたのはフランス革命期です。フランス革命によってブルボン王朝を滅ぼしたことにより、諸外国との緊張関係が生まれました。国王が支配する国において軍隊とは国王の軍隊です。しかし、フランス革命によって王家が無くなったフランスでは外国と戦う軍隊がありませんでした。しかも、国民の多くは革命政府だろうが、ブルボン王朝だろうが、支配者に興味はありません。革命政府の指導者たちは、自己の政権を守るために「フランス国民」という概念を持ち出し国民のための軍隊によって外国勢力を排除しようと考えました。
これは明治初期の日本が「日本人」という概念を生み出し、軍隊を「藩主の私有物」から「天皇の軍隊」と変貌させ、そのための実行力として徴兵制を導入したことからも見て取れます。
今、集団的自衛権がもてはやされ、国を守ることの重要性が喧伝されています。しかしながら、日本民族であることと、日本国民であることは同一なのでしょうか?僕は日本民族であり、日本国民でありますが、父は日本民族であり、満洲国民でした。国家は滅びても人生は続きます。果たして、国家と自己とを同一視することが一般民衆にとって適切な考え方なのかは、非常に疑問に感じています。国家を運営する側のエリート階級の人々が自己と国家を同一視することは十分に理解できますが、一般大衆は彼らのアジテーションをもっと冷淡に見つめる必要があるのではないでしょうか。
百人一首1 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣では 露にぬれつつ
| 百人一首(Wikipediaより) |
今回は百人一首の最初の2首、天智天皇と持統天皇のものを紹介します。どちらも天皇な上に、日本史でも馴染みの深い人物ですので、歌を暗記している人も多いのではないでしょうか。
秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣では 露にぬれつつ
天智天皇
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
持統天皇
百人一首7 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
| 百人一首(Wikipediaより) |
遣唐使に行かなかった、小野篁と菅原道真の歌を紹介しましので、今後は実際に遣唐使に渡った人の歌を紹介します。阿倍仲麻呂は有名人ですが、改めて彼の人生を振り返ってみようと思います。
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
阿部仲麻呂
百人一首24 このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
| 百人一首(Wikipediaより) |
「菅家」って書いてあると誰だかわかりませんが、歴史上の超有名人菅原道真公の一首です。小野篁がついに果たせなかった遣唐使を廃止したことで「894に戻そう遣唐使」で有名な人物ですね。この歌では「神のまにまに」なんて言っていますが、後世では彼本人が神様になってしまいましたね。受験のときには欠かせません。この菅原道真と平将門は怨霊から神様に転進し、現代人にも多くの影響を与えていますね。
このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
菅家
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