「歴史修正主義」とは何か


先日、ユネスコのが登録されたということで、僕の愛用しているNewsPicksにおいても大きく議論になっていました。その中で、識者同士が「歴史修正主義」について熱くやりあっていたのですが、どうも歴史学における歴史修正主義というものの定義が曖昧であるがゆえに歴史学を学んだ人と、そうでない人の間において根本的な理解の相違があるように感じました。そこで、僕自身まだ歴史学とは何かを学んでいる途上ではありますが、歴史修正主義とは何か、自分なりの考えを整理してみました。



歴史修正主義について説明する前に、歴史学とはどういった学問であるのかの理解が必要であるかと思います。僕自身の理解としては、歴史学は2段階のプロセスで歴史を紡ぐ学問であると考えています。この2段階それぞれにおいて重要な視点・考え方が異なっているが、歴史学を学んでいない知識人は、この違いを混同しているように感じています。

第一段階は史料批判です。現代に残されたエビデンスが歴史学の研究資料として、どのような価値があるのか分析するフェーズです。この段階においては、その史料が書かれた時代の価値観や社会状況は重要な視点となります。いわゆるリベラルな人がやりがちな失敗として、史料批判を現代の価値観で行ってしまうことです。たとえば、「信長の延暦寺焼き討ちは悪行である」という文書があった場合、現代人の価値観として寺社仏閣を一般市民もろとも焼き討ちにするのは許されざる悪行ですが、その価値観のままに「当時の人も悪行と考えていた」というのは浅薄な結論となります。その文書を記した人物が延暦寺の関係者ではないか、信長と敵対する勢力ではないか、といったことを考慮し、一向一揆や延暦寺による強訴などの当時の社会状況を踏まえて理解する必要があります。

次の段階はストーリーの構成です。ここの史料を歴史の流れの中で、どう位置づけるかを考える作業になります。この作業は現代の価値観で行います。僕はこれを「ビーズの紐通し」と考えています。ここの史料はあくまでビーズです。赤かったり、青かったりしますが、その色が何色かを考えるのが第一段階であるのに対して、第二段階では、それを一本の紐でつないでいきます。そのつなぎ方によって、ここのビーズの位置づけは大きく異なってきます。「延暦寺焼き討ち」を「伊勢長島の虐殺」「石山本願寺立ち退き」「加賀一向一揆の鎮圧」「南蛮貿易の推進」「天主堂の建設」といった信長と宗教との関係で紡ぐと、まるで信長がキリスト教を保護して仏教を弾圧していたかのように見えてきます。逆に「足利将軍の追放」「京都所司代の設置」などと並べると平安京に救う旧勢力との戦いの一部として見えてきます。この時、どのようにビーズを繋ぐのかという考え方が歴史観です。保守の人たちは、この段階においても当時の人たちの考え方でビーズを繋ぐべきと考えてしまいがちであり、「慰安婦は当時合法だった」っというような誤ったメッセージを発信してしまっています。ストーリーとしての歴史の評価はあくまで現代の価値観で行われる必要があるのです。

このビーズを紡ぐ作業には2つのアプローチがあります。1つめは、これまでの先人たちの研究成果という紐に新しくビーズを繋げていくというアプローチです。これが学問としての基本的なアプローチです。自然科学で言えば、アインシュタインの相対性理論を踏まえたうえで、時間と速度の関係について研究するようなものです。もう1つは、新しい歴史観でもって歴史のストーリーを再構築するアプローチです。自然科学では天動説に対する地動説のようなものです。新しい歴史観でのストーリーの再構築は広義に見れば、既存の歴史学の常識を打ち破る歴史修正主義的な活動ではありますが、これは歴史学で定義するところの「歴史修正主義」と批判されることはありません。

80年代くらいまで、歴史学といえば「国民国家の形成をたどった国民意識形成のための歴史」であったり、「生産構造の発展段階を探るマルクス主義的な歴史」だったりと、いずれも「国家」を単位として政治や経済の構造に着目した研究でした。しかし、ポスト冷戦の時代を迎えて、現代社会の価値観が変貌していく中で、新たな歴史観として2つの潮流が出てきました。一つめは社会を構成していた一般庶民を主軸に歴史を見ようという「ローカルヒストリー」の考え方、もう一つは「国家」の単位を超えて、当時の人々の経済・文化の交流を主軸に見ていこうという「グローバルヒストリー」の考え方です。この両者は対立するものではなく、地域がどのような歴史をたどっていたっか、そして外の世界と(国家の範囲にとどまらず)どのような関係にあったという補完関係にあるものがと認識しています。

新しい歴史観でストーリーを紡ぎなおしている名著をいくつか紹介します。

一冊目は黒田基樹氏の『百姓から見た戦国大名』です。これまで、戦国時代といえば戦国大名や武将からの視点で描かれており、百姓というのは戦乱に巻き込まれて右往左往する哀れな存在として扱われていました。本書は、これまでの歴史観とは様相を一変させ、むしろ戦国時代における戦争の主体者としての百姓を見事に描いてます。15世紀の関東においては、農業生産が未発達であり、人々は農業だけでは生活することが出来ず、端境期と呼ばれる初夏の頃には多くの餓死者を出しており、不足する食糧を確保するためにも略奪行為が不可欠であったこと、そのために百姓が自ら武装して侵略行為を行っていたことを明らかにしました。黒田氏の研究成果は大河ドラマ『風林火山』にも反映されています。





もう一冊は最近出版された『アジアのなかの戦国大名』です。こちらは九州の戦国大名である大友宗麟を中心にアジアとの関係を明らかにしています。戦国大名といでば「天下統一」を目指して戦っていたかのように主我勝ちですが、大友宗麟の場合、国際交易こそ重要なテーマでした。大友宗麟は弟を大内氏に送り込むことで中国との勘合貿易を手中にし、フランシスコ・ザビエルを保護して西洋諸国との交易を行い、カンボジアやタイと国交を開いていました。明との交易においては偽造した勘合(許可証)を用いて舟を派遣し、偽造がばれると一点して密貿易を行っていた倭寇の一人であったことがわかります。また、タイやカンボジアの国々とは九州国王として国交を開いて積極的に交易を行っていました。これは大友宗麟に特筆すべき事項ではなく、九州の戦国大名は多かれ少なかれ、中央進出よりも国際貿易を重要視していました。


と、ここまで歴史観について自分なりの考えをまとめた上で「歴史修正主義」について説明します。Wikipediaには歴史修正主義とは過去の歴史研究の成果を修正しようという考え方と広義な説明がなされていますが、学会においては「現代社会において許容できな価値観に基づいて歴史学研究の成果を修正しようとする考え」といった意味合いで利用されています。すなわち、「歴史修正主義」という批判は、先人の研究成果を否定するという行為に対して批判されているのではなく、その動機が批判されているのです。典型的な価値観としてナチズムの再評価が上げられます。少なくとも全うな歴史学者でナチズムを肯定的に評価しようという考えは見受けられません。西洋がナチズムであるならば、それに対比される東洋の思想は戦前の日本の軍国主義の再評価です。類似したものとしては、イスラム過激派によるテロリズムが挙げられます。もし、アフガニスタンの歴史家が「WTCへのテロ攻撃にはアメリカの偽善的な外交関係を世界に知らしめるプラスの側面もあった」と声高に叫んだとして、果たして影響力のある意見となるでしょうか?ただの異端扱いで終わるでしょうか?

という点を踏まえて、なぜ南京事件について「中国の数字はデマである」といった指摘が「歴史修正主義」と批判されるのは、その指摘者の意図が「日本軍はそんなに悪いことをしていない」という許容されざる動機に基づいていると見透かされているためです。そういった人々の特徴として「自虐史観」という表現を用いている点が挙げられます。確かに、いつまでも過去の行為の反省ばかりしていても仕方が無いという点には賛同できますが、であるならば、未来につながる研究を行うべきであり、その過去の行為を再評価しようというのは、結局のところ過去に囚われてしまっていると感じています。もはや過去は過去として、国際的な評価を甘受する覚悟を決めるべきではないでしょうか。日本は中国やアジアに侵略して負けたのです。いい加減、その事実を受け入れて物事を考えたいものです。

また、南京事件については本人は意図していないにも関わらず、極めて卑劣な発言になってしまっているものも見受けられます。それは「30万人虐殺の証拠を出せ」あるいは「エビデンスに基づいて数字を算出しろ」といった法学や自然科学では当然の要求です。なぜ、これが卑劣な発言になるかといえば、日本軍や政府がそのエビデンスを破棄してしまっているからです。世界から見れば、自分たち日本人が悪行の証拠を隠滅しておいて、「証拠を出せ!」と主張している様は完全に悪役のそれです。もし中国に対して証拠の提示を求めるのであれば、まずは日本側の史料をこちらから提示して説明すべきです。また、その点で注意するのは、日本側の証拠は常に自分たちに都合のよい数値で記録されているということです。もし、日本軍の報告が事実を明確にあらわしているならば、大本営発表という虚偽の情報公開が行われることが無かったでしょう。(大本営発表は大本営がウソの情報を発表したのではなく、現場からウソの報告が上がってきているが、それを検証することなく、そのまま発表していたものです)

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