百人一首1 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣では 露にぬれつつ

百人一首(Wikipediaより)
今回は百人一首の最初の2首、天智天皇と持統天皇のものを紹介します。どちらも天皇な上に、日本史でも馴染みの深い人物ですので、歌を暗記している人も多いのではないでしょうか。

秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣では 露にぬれつつ
天智天皇
春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
持統天皇


百人一首7 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

百人一首(Wikipediaより)

遣唐使に行かなかった、小野篁と菅原道真の歌を紹介しましので、今後は実際に遣唐使に渡った人の歌を紹介します。阿倍仲麻呂は有名人ですが、改めて彼の人生を振り返ってみようと思います。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも
阿部仲麻呂

百人一首24 このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

百人一首(Wikipediaより)

「菅家」って書いてあると誰だかわかりませんが、歴史上の超有名人菅原道真公の一首です。小野篁がついに果たせなかった遣唐使を廃止したことで「894に戻そう遣唐使」で有名な人物ですね。この歌では「神のまにまに」なんて言っていますが、後世では彼本人が神様になってしまいましたね。受験のときには欠かせません。この菅原道真と平将門は怨霊から神様に転進し、現代人にも多くの影響を与えていますね。

このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
菅家

百人一首11 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟

百人一首(Wikipediaより)
昨日の藤原忠通の「わたの原」つながりで、同じ「わたの原」から始まる一首です。作者の小野篁は数々の伝説を持ちすぎる素晴らしい男です。歴史好きやマンガ好きには結構有名な人物かと思いますが、世間ではそうではないですよね。小野小町の祖父というとこの一首は彼の人生に照らしあわせると非常に味わい深いです。

わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟
参議篁

百人一首76 わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

百人一首(Wikipediaより)
昨日紹介した意識高い系僧侶慈円の父親藤原忠通の一首を紹介します。名前が長くてぱっと見誰だか分かりませんが、書道をやってる人にはピンとくる名前じゃないでしょうか。

わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
法性寺入道前関白太政大臣

百人一首95 おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖

百人一首(Wikipediaより)
そういえば、坊主の歌を全然紹介していませんでしたので、今回は坊主から一首。百人一首好きには蝉丸こそ一番だとは思いますが、百人一首に登場する坊主の中で一番著名なものは慈円だと思います。

おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖
前大僧正慈円

百人一首40 しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで

百人一首(Wikipediaより)
ここ数日、藤原摂関家中心に歌を紹介してきましたが、そろそろネタが尽きてきてしまったので、少し時代をさかのぼり、一気に2首を紹介します。

しのぶれど 色に出でにけり わが恋は 物や思ふと 人の問ふまで
平兼盛

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか
壬生忠 

百人一首56 あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

百人一首(Wikipediaより)

今日も続けて中宮定子の女御の一首です。当時一番の和歌の名手にて恋い多き女性の代表です。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
和泉式部


百人一首59 やすらはで 寝やましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

百人一首(Wikipediaより)
昨日に引き続き中宮彰子の女房から『栄華物語』の著者赤染衛門の一首を紹介します。
やすらはで 寝やましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
赤染衛門

百人一首57 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

百人一首(Wikipediaより)
ここ数日、藤原道長と敵対する人たちの歌を取り上げてきました。そうすると、なんだか道長が悪者のように見えてきてしまうので、これからしばらくは道長の娘中宮彰子に仕えた女性たちの歌を取り上げていこうと思います。まずは。かの有名な紫式部の歌です。
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな
紫式部

百人一首68 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

百人一首(Wikipediaより)
昨日は身分違いの恋に破れた藤原道雅を取り上げましたが、一方で二人の恋仲を裂いた三条院とはどんな人物だったのでしょうか?

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
三条院

百人一首63 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな

百人一首(Wikipediaより)
昨日の儀同三司母の歌の続きです。藤原道長との権力争いに敗れた中関白家、さてその後はどうなったんでしょうか。
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
左京大夫道雅

百人一首54 忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの命ともがな

百人一首(Wikipediaより)

シンプルに読めば恋の歌ですが、その裏には摂関政治全盛期の藤原氏内部での熾烈な権力争いがありました。この「儀同三司」とは准大臣に相当する中国の役職名です。息子の藤原伊周が准大臣だったことから、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)という名前が残ることとなりました。

忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの命ともがな
儀同三司母

百人一首93 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の つなでかなしも

百人一首(Wikipediaより)
花の金曜ですね。今回は少しかなしげな鎌倉右大臣の一首です。鎌倉右大臣って有名なあの人のことなのですが、みなさまご存知でしょうか?
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の つなでかなしも
鎌倉右大臣

百人一首42 契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは

百人一首(Wikipediaより)
そろそろ皆さんに飽きられたかな?と思いつつ今日の一首。清少納言の父、清原元輔の一首です。東日本大震災で一時期話題になったので、ご存知の方もいるかもしれません。
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
清原元輔

百人一首60 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立

百人一首(Wikipediaより)

今日は打って変わって、女流歌人の一首を。小式部内侍は本人も優れた歌人ながら、母の和泉式部が著名な歌人として平安貴族の中で知れ渡っていました。そんな二世歌人ならではの機転の利いた一首です。
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天の橋立
小式部内侍

百人一首77 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

百人一首(Wikipediaより)

連休もあと一日、明日は後悔無く過ごしたい第四弾です。今回も天皇の一首をチョイスしました。崇徳院、「祟る」なんて字が入っている天皇はちょっと気になりませんか?
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
崇徳院

百人一首13 筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

百人一首(Wikipediaより)

さて調子に乗って第三弾までやってきました。今回は日本の天皇制の変遷を理解する上でも役立ちそうな陽成院の一首です。この一首そのものの出来も味わい深いのですが、なぜ陽成天皇ではなく陽成院なのかを知ると日本史にもっと興味がわくかと思います。
筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
陽成院

内容
この歌は比較的シンプルな内容です。筑波山の男体山、女体山および、そこに流れる男女川(みなのがわ)を男女の中に見立てた恋の歌で、「筑波山に流れる男女川が小さな水滴が溜まって川になるのように、私とあなたとの間のちょっとした思い出が積もって、今では想いが深くなりました」というとてもストレートなラブレターです。婚約者に宛てた一首ですので10代後半頃の青春味付けあふれる一種です。とまぁ、この歌だけ見ると普通のラブレターなわけですが、この背景を知ると益々面白い一首なのです。

ネオニート
この歌を歌った陽成院は「人生始まったと思ったら終わってた」という人物です。わずか9歳で天皇となったかと思ったら政局に翻弄されて15歳で譲位を迫られます。15歳といえば現在では中学3年生、ちょうど自分の将来の進路などを考え始めたりする頃ですが、すでにそのときに隠居生活を余儀なくされました。後を次いだのは大叔父(祖父の弟)の光孝天皇55歳です。以後、80歳で崩御するまで65年間もの間、上皇として隠居生活をしていました。この上皇在任期間は歴代天皇の中でぶっちぎりのトップです。
陽成院は結婚したもの隠居してからです。この一首が譲位前か後かは、僕の不勉強で知りませんが、元服後であったのは間違いないと思いますので譲位が現実的だったことは間違いないと思っています。そんな、陽成院の婚約者はなんと光孝天皇の娘でした。自分を追い落とすことで傍流から天皇位に昇り詰めた男の娘が婚約者だったわけです。しかも思春期の面倒くさい時期に。きっと、最初は反発していたかと思います。そんな陽成院ですが、婚約者との思い出を少しずつ経ていく中で、ようやくこの歌の境地に至ったわけです。
当時の習いとはいえ、将来性のかけらも無い男と婚約せざるを得ず、その婚約者からは嫌われていた光孝天皇の娘綏子内親王からすると、この一種をもらった時の喜びはいかほどだったかと思います。その後、2人は綏子内親王が薨去するまでの40年ばかりを仲睦まじく過ごしたんじゃないかなと思っています。

天皇と院
さて、この一首を今回取り上げたのは、内容に面白みがあることもさりながら、百人一首では作者を「陽成天皇」ではなく、「陽成院」としていることに注目してほしかったからです。これより前に百人一首に登場する天皇は「天智天皇」、「持統天皇」と天皇がついています。これより後は「光孝天皇」を除いて、「三条院」「後鳥羽院」「順徳院」と天皇ではなく、院が付いています。
○○天皇というものは「諡号」と呼ばれています。諡の字は訓読みで「おくりな」と読まれるとおり、死者に対して、その人の功績をたたえて贈る名前です。その名前付けには、その人の功績が考慮されたものとなります。だから、「天智」「天武」「聖武」といった演技の良い文字の天皇が多く出てきます。また、呼び名の最後が天皇で終わる形式ものを天皇号と呼びます。つまり、律令国家の成立期は諡号・天皇号でした。
一方で、○○院というものは「追号」と呼ばれています。これはただ単に死者に名前をつけただけのもので、その人の住居や墓陵に関連したもので呼ばれます。また、院で終わる呼び方を院号と呼びます。「醍醐」「鳥羽」「伏見」など京都の地名を持つ天皇が多くなります。面白いのでは、歴代天皇には、一条、二条、三条、四条、六条という名の天皇がいるのですが、なぜか五条だけ抜けています。この諡号から追号への変化は、あるときを境にスパッと変わったのではなく、51代平城天皇から58代光孝天皇まの間に徐々に変化していきました。この間の天皇は諡号と追号が混ざっていますが形式としては天皇号となっていました。これが醍醐院から、追号・院号の組み合わせが確立していきました。
で、ここで疑問がわく人もいるかもしれません。なぜ先代の陽成院が追号・院号で、次代の光孝天皇が天皇号なのでしょうか。これは崩御した順番が即位の順とは異なるからです。陽成院は譲位したとき15歳、そこから65年も生き長らえていますから、その間の天皇を崩御した順に並べると光孝、醍醐、宇多、陽成となります。なので、光孝天皇までが天皇号による諡号となり、醍醐院からが院号による追号となりました。
この後、諡号・天皇号が復活するのは、1000年後の幕末、光格天皇の代になります。1840年に崩御した光格天皇は宮廷文化の復活に熱心な天皇であり、諡号も1000年ぶりに復活させました。当時は幕末で日本近海に多くの外国船が出没している時期であり、国際関係における危機感から日本の良さを再発見しようという流行のある時期でした(今の日本に似ていますね)。そんな中で1000年ぶりに復活したのでした。
そんな光格天皇肝いりの諡号復活もたった3代でおしまい。明治天皇以降は元号を持って追号とするということになり、再び追号の時代となりました。なお、明治といえば維新開国、欧米化の印象が強いですが、一世一元と呼ばれる君主の在任期間中には年号を改めないというルールはお隣清国から輸入したアイデアとなっています。
さて、ではなぜ現代ではすべての天皇を院号ではなく、天皇号で呼ぶのでしょうか。これは、大正時代に「すべての追号も院号ではなく、天皇号にする」とお上が布告したからです。なんと、20世紀に入ってから、過去の天皇含めて追号を改めたんですね。なので、古典を読む際に、天皇は多くの場合は院号で呼ばれているということを理解していくと良いかと思います。
この、明治以降の天皇の名称の変遷については、次回記事にしたいと思います。今の歴代天皇が決まったのって、結構人為的な作業があったんですよ。

百人一首62 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

百人一首(Wikipediaより)

前回の記事が思いのほか好評だったので、浮かれて第二弾です。今回は枕草子で有名な清少納言の一首です。この一首も、その背景を知ることで、いっそう深く楽しめる一首です。

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
清少納言



内容
この歌の内容を理解する前段として、「逢坂の関」を知っておく必要があります。逢坂の関は京都と大津との間にあり、東日本から平安京へ赴くには必ず通らなければならない交通の要衝でした。ですので、当然、関所があります。昔の関所というのは日中は開いていますが、夜になると閉じてしまうものでした。また、「逢坂」という漢字から「男女が逢う」という意味で短歌に登場するようになりました。
それを踏まえて、この歌の内容を説明すると「まだ夜なのに鶏の鳴きまねをして朝だと勘違いさせるような謀略をもってしても、私はあなたとは男女の仲にはなりません」というお断りの一首になるのです。では振られたのは誰かというと、藤原行成という男性です。

孟嘗君
この一首ができるまでの経緯は『枕草子』にも記載がありますので、非常に詳しくわかっています。その前に、この一首を深くしるために『史記』に登場する孟嘗君という人物を知っておく必要があります。孟嘗君とは中国東部の「斉」という国の王族で多くの食客を雇っていました。普通は学者や武芸の達人などを雇うものですが、孟嘗君は盗みの名人や物まね名人まで雇っていました。
ある日、西の大国「秦」が孟嘗君をスカウトしにきました(斉の王族を秦がスカウトするというのもおかしな感じですが、当時はよくありました。後には楚の王族ながら秦の相国になった後に楚王になった昌平君もいます)。孟嘗君は喜んで秦に赴いたのですが、秦に着くと秦王は心変わりして孟嘗君を殺害しようとします。
孟嘗君は秦から斉へ逃げるのですが、途中には函谷関という秦の難関がありました。朝未明に函谷関にたどり着いた孟嘗君一行でしたが、まだ日は昇っていないので関所はしまったままです。朝を待っていては追手の軍隊に追いつかれてしまいます。そこで、出てくるのが鶏の鳴きまねの達人です。彼の鳴き真似に勘違いした門番が関所を開けてしまったので孟嘗君一行は無事に追手から逃げ切ることができました。

経緯
さて、話はもどって藤原行成と清少納言です。二人は男女の違いはありますが古い友人です。ある晩も一緒に飲んでいたのですが行成が「明日は早いからそろそろ帰るわ」と早めに帰ってしまいます。清少納言としては古くからの友人とのせっかくの機会なので朝まで語り合おうという思っていたのに、早く帰ってしまったのが不満だったところに、翌朝の手紙で「長居しようと思っていたのに、鶏の鳴く声にもう朝だと勘違いして帰ってしまいました」という、すばらしく白々しい内容が送られてきました。
これに対して、清少納言は「孟嘗君が雇っていた鳥の泣きまねの達人でもいましたか?」と返すと、行成はさらに「孟嘗君が開けたのは函谷関ですが、私が開けたいのはあなたとの逢坂の関だ」とまたはぐらかす内容が返ってきました。そこで、この一首が生まれたわけです。
ということを考えると、これは本気の告白でも、本気のお断りメールでもなく、気の置けない友人同士の冗談半分の語らいかなと思っています。ずいぶんと知的ですが(笑)

清少納言
この一首の背景には清少納言が『史記』に精通していたということがあります。当時は男女で学ぶべきことは異なっていましたから、女性が漢籍(中国の古典)に詳しいというのは決してほめられたものではありませんでした。普通の女性であれば、学ぶ機会もありませんでしたので、清少納言はほかの女性とは異なる学問的背景を持っていたことになるかと思います。それが、『枕草子』という後世に伝わる傑作を作り上げたのかと思います。
一方で相手の藤原行成は高級官僚でしたので、史記などの古典に精通してることが求められたらんでしょうね。よく考えれば、史記って平安貴族からみても1000年前の作品なんですよね。

感想
この一首が生まれた時期は清少納言が二度目の結婚をした後かと思うのですが、それなのに夫以外の男性と艶やかなメールのやりとりをしていたというのは平安時代の貴族文化というのは、現代人が思っている以上にオープンだったんだなと感じています。
そして男友達とのやりとりが知的過ぎるあたり、当時の宮廷では浮いてたんじゃなかろうか?と余計な心配もしてしまいます。


今日のおすすめ
清少納言の枕草子は日本人のもののあはれに対する価値観を振り返るのには欠かせない名作古典だと思います。

枕草子

百人一首97 藤原定家 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

百人一首(Wikipediaより)

百人一首は今でこそカルタとして有名ですが、元々は藤原定家が百人の名人から一首ずつ選らんで作り出した歌集でもあります。この百人一首に記された和歌のすばらしさを少しでも広められればと考えていたので、僕の心に残っている和歌をいくつかピックアップして順場に紹介していきたいと思います。
まずは、百人一首の編者である藤原定家の一首です。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ
権中納言定家