『足利氏満とその時代』(関東足利氏の歴史)

今回取り上げるのは関東公方の歴史をまとめた「関東足利氏の歴史」シリーズの第2巻『足利氏満とその時代』です。先代の足利基氏の時代を起承転結の「起」とするならば、この氏満の時代は起承転結の「承」の時代です。彼の時代に鎌倉府の基本構造が確立され、以後安定して継承されていくようになります。

足利義満と氏満

足利氏満は、その名前に「満」があるとおり、従兄弟で室町幕府3代将軍の足利義満と同時代の人です。生まれは延文4年(1359年)で、前年に生誕した義満とは1歳しか変わりません。二人の父である義詮・基氏は共に貞治6年(1367年)に死去していますから、2人とも同年に家督を相続したことになります。氏満の死去は応永5年(1398年)で、義満が将軍職を辞したのが応永元年(1394年)ですから、ほぼほぼ同じ時代に京と鎌倉のトップを担っていたことになります。
ちなみに、氏満の子満兼が鎌倉公方だったのが応永5年(1398年)~応永16年(1409年)で、義満が大御所政治を行っていた時期(~応永15年)とほぼ重なります。満兼の子持氏は永享11年(1439年)に戦死しますが、持氏の時代は足利義持・義量・義教の時代とほぼ重なり、持氏の死後2年後の嘉吉元年(1441年)に義教が暗殺されるとい感じで、室町将軍と鎌倉公方とは代替わりの切れ目が近く、関東での出来事があった時期に京都では何があったのかを想像しやすくなっています。

偏諱について

室町時代には室町将軍の権威を高める手段として偏諱が盛んに用いられました。これは自分の名前の一字を部下に与えるというものです。なので、初見の武将が出てきても名前を見ると、だいたいどの時代か分かるので便利です。足利義満⇒足利氏満は説明したとおりですが、足利義持(4代将軍)⇒足利持氏もそうですね。
戦国大名でも、武田晴信(信玄)は12代将軍足利義晴から偏諱を受けているのに対して、上杉輝虎(謙信)は13代将軍足利義輝からですから信玄より一つ若い世代だということが分かります。また、戦国大名は更に部下に偏諱を行ってます。武田晴信は将軍からもらった晴の字は部下に与えられないので、代わりに「昌」の字を偏諱に用いました。真田昌幸、山形昌景、内藤昌豊などが有名ですね。

上杉氏の時代

足利氏満の時期には鎌倉府は統治機構を確立させていきます。それに伴って、足利氏満個人としての政策・活動というものは表立って見えて来ず、鎌倉公方という公的機関としての立ち位置をしっかり理解し、「法の支配」を受けた統治を行っていたように思います。この時期に存在感を発揮したのは関東管領として実務を担った上杉氏でした。先代の足利基氏を支えた上杉憲顕は、基氏の跡追うようになくなっており、氏満期を支えていたのは憲顕の子上杉能憲でした。上杉能憲の下で上杉氏が中心となって平一揆の乱や小山義政の乱を鎮圧していきました。その能憲が永和4年に亡くなると、能憲の弟たち憲春・憲方が関東管領の職を継承していきました。

上杉憲春の死

足利氏満の時代の最大の謎は関東管領上杉憲春の自殺です。通説では憲春の自殺は足利氏満を諌めるための諌死であったといわれています。これは、康暦元年(1379年)におきた室町幕府での管領を巡る争いに乗じて、足利氏満が将軍職の簒奪を狙って兵を進めたことに対して、上杉憲春が死を以って諌めたといわれるものです。しかしながら、本書において、この通説は否定されて、兄上杉憲方を差し置いて関東管領に就任したことで上杉氏内で憲春が孤立したために自害したのではないかと本書で提唱しています。
本書において憲春が諫死でないことの具体的な説明はりませんので、個人的な考えをまとめておきます。康暦の政変はあくまで管領職を巡るものであり、管領細川頼之に対して斯波義将らが武力蜂起したに過ぎず、誰も足利義満にまで波及させる意思はありませんでした。そんな中で足利氏満が将軍職を狙うというのは余りにも突発的であるように感じます。それまで京と関東の間に大きな問題もありませんでした。これは、後世の足利持氏・成氏がたびたび反乱を起こしたことから敷衍されて、鎌倉府は幕府と対立するものであるという目で見られてしまっているように感じています。当時の情勢から見て、康暦の政変に際して細川方あるいは反細川方として軍事活動を図っていたというところが真相ではないかと考えています。
そうしたときに、足利氏満は果たして細川方だったのか、反細川方だったのか今後の研究成果に期待したいと思います。



0 件のコメント:

コメントを投稿