百人一首24 このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに

百人一首(Wikipediaより)

「菅家」って書いてあると誰だかわかりませんが、歴史上の超有名人菅原道真公の一首です。小野篁がついに果たせなかった遣唐使を廃止したことで「894に戻そう遣唐使」で有名な人物ですね。この歌では「神のまにまに」なんて言っていますが、後世では彼本人が神様になってしまいましたね。受験のときには欠かせません。この菅原道真と平将門は怨霊から神様に転進し、現代人にも多くの影響を与えていますね。

このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに
菅家



内容
この歌で一番わからないのは「ぬさ」ですよね。ぬさを、ちょっとおいておいて内容を現代語訳すると「今回はちょっと立ち寄りで神社に参拝に来たので、『ぬさ』の準備もできていません。変わりに、この美しい山々の紅葉を『ぬさ』代わりにささげますので、よろしくお受け取りください」という、歌になります。これはちょっとわかりにくいですね。この「ぬさ」というのは、「幣」と書きます。貨幣や紙幣なんていうのに使われている字です。この幣は神社に参拝する際に神様に奉納する紙になります。文字で説明してもわかりにくいですので、Wikipediaから写真を取ってきました。

御幣 (Wikipediaより引用)

なんか、見たことある人が多いかと思います。この「幣」を今回は持ってきていないから、と言い訳していますが、これは本当に忘れたからというわけで無いと思っています。なにせ、菅原道真公ですから。これは、参拝した神社の神域にある山林の紅葉がとても綺麗な様子を「幣の変わりに神様に奉納したくなる美しい景色だ」と表現しているものじゃないでしょうか。
ちなみにこの手向山というのは、もともと神様に奉納する何かしらを生産している山だったのですが、一部で固有名詞化し、奈良には「手向山八幡宮」という神社があります。果たして菅原道真がこの山を示したかどうかはわかりませんが、一度紅葉を見に行ってみるのが面白かと思います。奈良公園の敷地内、東大寺のすこし億手にありますので、奈良に行った際には立ち寄ってみたいです。


遣唐使廃止
菅原道真といえば、遣唐使廃止ですね。894年。
さて、この時の唐の様子はどうだったのでしょうか?さかのぼること20年前の874年に黄巣という人物が同僚たちと反乱を起こしました。この反乱軍は唐の主要都市のみならず首都の長安まで陥れました。これによって唐は実質的に崩壊します。反乱はその後10年ほど続き、884年に李克用と朱全忠の活躍によって鎮圧されます。そして、朱全忠と李克用が唐の実権をめぐって争っているというのが遣唐使廃止時点での状況です。古くは陳勝呉広の乱、黄巾党の乱あるいは太平天国の乱のように、下からの反乱から名を上げた奸雄に帝位を簒奪されるのが、この国の慣わしですね。
黄巣の乱は正規軍だけでは倒せませんでした。多くの群雄たちが唐を助けるために立ち上がりました。朱全忠もその一人です。と言えば格好良いのですが、黄巣の乱の鎮圧に功績のあった武将たちの多くが元々黄巣の反乱軍にいたならず者たちです。乱が停滞してきた時期に「今なら唐についたほうが旨みがありそうだ」とこぞって寝返ったのでした。
日本から派遣された遣唐使がたどり着く今の上海周辺もそんな軍閥の一人銭鏐が支配していました。彼も元々は反乱軍の人間でしたが、反乱軍の中で地位をあげて上海周辺の支配権を得ると、反乱軍を裏切って半ば独立国のような振る舞いをしていました。
そんな状況ですから、遣唐使を送って唐にたどり着く保証はありませんでしたし、国内情勢が非常に不安定な状況でした。ですので、国費を使ってわざわざリスクをとってまで派遣しても、もはや得るものは少ないだろうと道真は考えたのでした。

大宰府左遷
で、この遣唐使廃止について、僕が勘違いしていたのですが、菅原道真が遣唐使を「派遣する」のを止めようと言い出したのではなく、自分が遣唐使に「派遣される」のをやめようと言い出していたのです。つまり、自分が行きたくなかったと。とういうことは、上にいろいろ唐の様子を説明してみたものの、それらは名目上の理由であり遣唐使への派遣よりも朝廷に残ることを重視したのではないでしょうか?
というのも、894年は菅原道真を厚遇していた宇多天皇の治世の晩年にあたります。宇多天皇は藤原氏の権力拡大をけん制するために、道真をはじめとして藤原氏以外の人材を積極的に登用していました。道真は、この後藤原氏のトップ藤原時平に肩を並べることになりますが、宇多天皇が譲位し、醍醐天皇が即位すると九州の大宰府へと左遷されました。したがって、遣唐使に派遣される時期の道真からすれば、宇多天皇が高齢になってきて将来に黄色信号が点っている状況で、遣唐使に派遣されて宮廷を何年間も空けるというのは非常にリスキーなことだと考えたのではないかと想像しています。そこで、唐に入っても良いこと無いと理屈を並べたのかなぁ。
遣唐使の派遣が終了した後は日本独自の「国風文化」が花開いたと教科書などには載っていますが、引き続き民間レベルで中国との交流は続きました。博多には中国人商人が街を形成し、日中間の貿易を取り仕切っていました。日中間の貿易は教科書に載っている以上に盛んに行われていました。たとえば足利義満もそうです。室町時代、中国の明は中華皇帝から国王として承認された機関のみに交易を認めていました。この国王にあたる人間は他の誰かの部下であってはいけませんでした。日本は建前上、中国と同等の天皇がいましたから、天皇を日本国王として承認してもらうわけにはいきません。そこで、足利義満は自らを准三后として、天皇に並ぶ地位の存在というポジションを確立し、明の皇帝に日本国王として認めてもらいました。交易のための苦労もひとしおです。
東アジアの国際貿易で一番面白いの対馬の件です。時に戦国時代、日本中が血気盛んな時代でした。大内氏と細川氏が中国の寧波で市街戦をやらかしていた時代です。当時、対馬の交易商は朝鮮半島に南部に商館を築いて日朝貿易で多くの利益を得ていました。しかし当時の朝鮮政府がこれに介入し、交易に規制をかけてきます。それに反発した日本の商人たちが朝鮮半島で武装蜂起します(三浦の乱)。この反乱はすぐ朝鮮政府によって鎮圧され、対馬との交易を禁止されました。これに困ったのは対馬の人々です。対馬は土地がやせており、交易が主な収入源となっていました。生活の糧を奪われて困った商人たちは、あるとんでもない事をやりました。なんと、勝手に「対馬は朝鮮国の土地になるので、貿易再開させて」という領土割譲の文書を偽造してしまったのです。これ、日本側では完全なるでっち上げでなんの正当性も無いイタズラ文書レベルのものなのですが、朝鮮では正式な文書として受理されてしまいます。それに築いた対馬を支配していた宗氏が「この間のやつは真っ赤な偽物です」と連絡して、対馬割譲の話は白紙になりました。
ところが、500年のときを経て「対馬はかつては韓国領」って言い出している人がいますね。あれの根拠がここなんです。どこで、何がどうなるかわからないですね。

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