国民国家と王族

いわゆるイスラム国の台頭やグローバルカンパニーとの徴税権の争いなど2010年代に入って国民国家が相対的になってきたと考えています。しかしながら、政治学などの社会科学は国民国家を前提として発展してきたがために、新しい時代の価値観を図りかねているのではないか、と個人的に感じています。そこで、国民国家ってそもそも何なんだろうか?という問題提起を行いたいと思います。

天皇家と日本人
日本では天皇家は日本人であり、日本国民も日本人です。王族と国民とが同じ民族であるのが当然と考えられています。この考え方は天地開闢以来の常識であったわけではなく、明治新政府が国民国家を建設するにあたって、天皇を国家の象徴として祭り上げ、臣民=日本国民としての教育・宣伝を行ってきた成果によるものです。

江戸時代までの日本は武士が政治を行っており、国民にとって天皇というのは存在するらしいが、実態が良くわからないものでありました。多くの国民は自分を日本人と考えていたわけではなく、薩摩人、土佐人あるいは多摩人といった形で、自分の生活する領域でもって自己の民族的アイデンティティを持っていました。彼らにとって支配者というのは結局のところ余所者であり、それが誰であろうと多くの民衆には関係の無いものでした。

江戸時代の藩だと薩摩の島津家、加賀の前田家のように一つの家系が同じ地域を長年にわたって支配してきた地域が著名となりますが、実際には多くの領地が頻繁に支配者を変えていました。たとえば、今のさいたま市岩槻区にあたる岩槻藩の場合、高力家、青山家、阿部家、板倉家、戸田家、藤井松平家、小笠原家、永井家、大岡家と異なる領主により支配を受けていました。こうなると岩槻の人々は自分たちと領主とを同じ共同体の人とは考えなくなります。

この状況でもし、幕府が一部の藩を外国人に与えていたらどうなったでしょうか?たとえば、幕末の医師シーボルトがもし追放されていなかったら、どこかにシーボルト家を藩主とする藩が出来ていたかもしれません。この時、その地域の農民たちは自分たちが異民族による支配を受けると考えてでしょうか?

という仮定の話をすると大げさに思えるかもしれません。しかし、これが実際に起きたのがインドです。1765年にイギリス東インド会社はムガール帝国との協定よりベンガル州の太守となりました。このことが後のイギリスのインド支配への布石となっていくわけですが、この時にインド民族の危機を認識した人はいませんでした。なぜなら、ムガール帝国そのものがモンゴル人やトルコ人などの異民族によって支配されている国家だったからです。先ほどの岩槻の例でいえば、岩槻の支配者はたまたま三河という比較的近い距離だったにすぎず、民衆の意識としては余所者が支配しているという点において同様でした。イギリスの支配はインドに限らず、同様な形で中国や中東でも支配権を確立していきます。


切り取られた帝国
世界四大文明と呼ばれた地域を支配していた、清、ムガール帝国そしてオスマントルコは奇しくも、いずれも異民族による征服王朝でした。そのため支配者と非支配者との間に同じ国民としての連帯感が生まれにくい状況でした。イギリスはその隙を突いて帝国を切り取っていきます。明治新政府の人々は、その現状を目の当たりにし、「日本国民」としてのアイデンティティの確立が無ければ国家の統一は難しいとの危機感を持ち、天皇に現人神としての神聖性を与えて国家神道によって
日本国民を生み出しました。

一方で、先ほどの3帝国はどうなったでしょうか?イギリスあるいはフランスなどと組んだ各地の有力者が列強の軍事力を背景に独立を果たしていきます。しかし、そこには国民国家としてのアイデンティティはありませんでした。

オスマントルコの事例でいけば、イギリスの後援を背景にエジプトを独立させたムハンマド・アリーはギリシャ出身のアルバニア人ですし、ヨルダン王国もまた元々はメッカの太守でした。オスマントルコ崩壊の中でのイギリスやフランスの暗躍が今の混乱の元凶となったのは周知の事実です。
中国においても清朝の崩壊と共に多数の軍閥が群雄割拠する時代となりました。外モンゴルはソ連の軍事支援の元で独立し、内モンゴルは日本の支援での独立を試みるも頓挫、東トルキスタンやチベットにおいても分離独立運動は失敗しました。インドは既に3つの国に分離され、その過程で多くの人命が失われました。いずれの国も国家の分裂や再統合という激動に見舞われることとなりました。


西洋各国と王族
と、日本やアジアの国々の事例を紹介してきましたが、「いやいや、そういうのは前近代の話でしょ。」と思われる方も多いと思いますので、ここで西洋各国の王族を振り返ってみましょう。

まずはイギリスを見てみましょう。今のウィンザー朝はドイツのハノーバーから来た一族です。その前はオランダの支配者であるオラニエ公ウィレム3世を挟んで、スコットランドのステュワート朝がありました。更にその前はフランスのアンジュー伯を祖とするアンジュー朝が、その前は同じくフランスのノルマンディーから来たノルマン朝が支配していました。つまるところ、イングランドの歴史の多くは、そして今現在も、外国人が王位についてきたのです。まあ、これもハノーバー朝が出来たのが1714年ですから、国民国家が形成される以前の話と切り捨てることが出来るかもしれません。

そこで、次はデンマーク王家の話です。今のデンマーク王家であるグリュックスブルク家は1863年にクリスティアン9世が前王フレゼリク7世が死去した際に、遠縁にあたるということでデンマーク王家を継承することとなりました。時に19世紀半ばで、日本では幕末の志士たちが活躍していた時代です。その息子のゲオルギオス1世はギリシャ国王になりました。これは先代のギリシャ国王が議会と対立して追放され、その後任としてゲオルギウス1世が招聘されたためです。この時点で、彼はギリシャとは何の縁もゆかりもありません。さらに1905年にはノルウェーがスウェーデンとの同君連合を解消して独立しました。この時に、クリスティアン9世の孫がホーコン7世としてノルウェー国王となりました。既に20世紀になった話です。

つまり西洋社会においても国王や貴族というのは、その血筋の高貴さによって選ばれるものであり、その国家の民族とは何の関係も無いということです。これはベルギー国王がザクセン王家から来ていること、スペイン国王はフランス・ブルボン家の出身であることなどからも挙げられます。


国民国家と徴兵制
で、結局僕が何を言いたいかと言うと、「国民国家」という概念は国家の支配者が国民よく馴致するための方便ではないかということです。

そもそも、国民国家が生まれたのはフランス革命期です。フランス革命によってブルボン王朝を滅ぼしたことにより、諸外国との緊張関係が生まれました。国王が支配する国において軍隊とは国王の軍隊です。しかし、フランス革命によって王家が無くなったフランスでは外国と戦う軍隊がありませんでした。しかも、国民の多くは革命政府だろうが、ブルボン王朝だろうが、支配者に興味はありません。革命政府の指導者たちは、自己の政権を守るために「フランス国民」という概念を持ち出し国民のための軍隊によって外国勢力を排除しようと考えました。

これは明治初期の日本が「日本人」という概念を生み出し、軍隊を「藩主の私有物」から「天皇の軍隊」と変貌させ、そのための実行力として徴兵制を導入したことからも見て取れます。

今、集団的自衛権がもてはやされ、国を守ることの重要性が喧伝されています。しかしながら、日本民族であることと、日本国民であることは同一なのでしょうか?僕は日本民族であり、日本国民でありますが、父は日本民族であり、満洲国民でした。国家は滅びても人生は続きます。果たして、国家と自己とを同一視することが一般民衆にとって適切な考え方なのかは、非常に疑問に感じています。国家を運営する側のエリート階級の人々が自己と国家を同一視することは十分に理解できますが、一般大衆は彼らのアジテーションをもっと冷淡に見つめる必要があるのではないでしょうか。