『足利基氏とその時代』(関東足利氏の歴史)

今回取り上げるのは関東公方の歴史をまとめた「関東足利氏の歴史」シリーズの第1巻『足利基氏とその時代』です。室町時代の関東地方を知る上で欠かせない鎌倉府・鎌倉公方ですが、その存在の重要性に比べて世間での知名度は低いものとなっています。特に本書で取り上げている足利基氏は魑魅魍魎うずまく南北朝時代にあって珍しい正義感に溢れた立派な人物なのですが、イマイチといか全く知られていないので、是非とも本書を通じて彼の人となりを知ってもらいたいです。


鎌倉府について

このシリーズを読むにあたっての前提知識として「鎌倉府」の存在を理解しておくことが求められます。鎌倉府を現代風に乱暴にまとめると、室町カンパニーの関東支社です。この支社長を「関東管領」と呼びました。あの上杉謙信も関東管領でしたね。この関東支社は、元々は鎌倉カンパニーだったものを足利尊氏たちが乗っ取ってしまったものだとイメージしてください。
関東管領が支社長であるなら「鎌倉公方」は何者なのでしょうか?鎌倉公方が何者かというのは明確な定義が無いのですが、僕の理解は以下の通りです。鎌倉公方になった足利基氏とその子孫たちは広義に言えば足利将軍家の一員で家臣ではないのです。つまり、室町カンパニーの株主であって従業員では無いわけです。鎌倉公方は室町カンパニーの取締役として関東支社を管掌しているという把握が一番実態に近いのではないでしょうか。なので、その権限は委任内規等で明確に定められてはおらず、代表取締役である室町将軍との関係性によって日々変化していったのです。

足利基氏について

さて、本書の主人公である足利基氏とはどういった人物だったのでしょうか?彼は足利尊氏の(おそらくは)末っ子として生まれます。母親は正妻の赤橋登子で、同母兄には10歳年上で室町幕府の二代将軍足利義詮が居ます。母の赤橋登子は鎌倉幕府執権の北條家出身で、兄の北條守時(赤橋守時)は鎌倉幕府最後の執権です。この、源氏惣領の足利氏を父に、鎌倉執権の北條氏を母に持った事こそ、彼が鎌倉公方として成功したことにつながったと考えます。
足利基氏は暦応3年(1340年)におそらく京都で生まれました。彼が生まれた時、兄の義詮は鎌倉におり、兄とは面識なく育つこととなりました。そして、彼が10歳になったときに兄の義詮と交代で鎌倉へ赴くことになります。足利基氏が京を出発したので貞和5年(1349年)9月9日で、兄の義詮が鎌倉を出発したのは同年10月3日ですので、たった数日かもしれませんが、兄弟が直接対面する機会があったものと思われます。そして、これが兄弟が出会う唯一の機会であり、2人は二度と直接顔を合わせることはありませんでした。僕が足利基氏のすばらしい人物と評価する最大の点は、この人生たった一度出会っただけの兄に対して終生協力を尽くし、関東における室町幕府の基礎を築き上げたことです。

観応の擾乱について

なぜ、足利基氏が兄義詮と協力しただけの事を、僕はそこまで評価するのでしょうか。それは、基氏が鎌倉に下向することになった一連の事件が由来しています。あ基氏が鎌倉に下向したのは、「観応の擾乱」と呼ばれる足利尊氏と弟直義の兄弟げんかに端を発しています。観応の擾乱そのもについては、昨年出版された亀田俊和氏の著書『観応の擾乱』を読んでいただくと、複雑な事件の流れを理解いただけると思いますので、ここでは足利基氏から見た観応の擾乱について説明します。
足利基氏は鎌倉に下向した段階で叔父の足利直義の養子となりました。ところが、その義父が実夫と対立してしまったのです。それだけではありません、足利基氏には足利直冬という異母兄がいましたが、この兄の直冬が何故だか父尊氏にものすごく嫌われていました。そのため、直冬も叔父直義の養子になっていたのです。つまりは、足利基氏から見ると、観応の擾乱とは「実父尊氏・同母兄義詮」と「義父直義・異母兄」の争いであり、まだ12歳という幼い基氏に与えた心理的影響はかなり大きかったと思われます。
観応の擾乱は実父尊氏の勝利で終わりました。尊氏は戦闘で捕虜にした義父直義をともなって鎌倉入りします。この状況は基氏にとって直視しづらいものであったようで、基氏は安房へと逃れて隠居すると言い出しました。余談ですが、足利尊氏と子供たちには遁世のきらいがあったようで、実父尊氏も実兄義詮もたびたび隠居したり、仕事を放り投げたりしていたようです。安房へと身を隠した基氏ですが、一月後には呼び戻され、実父尊氏の元で正平7年(1952年)2月25日に元服の儀を行いました。そして、その翌日に義父直義は謎の死を遂げました。直義の死は尊氏による暗殺ではないか、と当時からうわさされていたようです。

入間川殿

さて、観応の擾乱があった、この時代は南北朝時代です。足利尊氏の敵は弟直義だけでなく南朝の勢力もありました。観応の擾乱で足利直義が死亡したことで、彼の部下たちはこぞって南朝に味方するようになりました。これを好機と見た新田義貞の遺児の新田義興・義宗の兄弟が挙兵します。南朝方の勢いに押され、尊氏・
基氏親子は鎌倉を退去することになります。しかも時を同じくして京都では楠木正成の子楠木正儀が京都を占拠してしまいました。兄弟の争いに勝ったかと思ったら、今度は南朝の攻勢で大ピンチとなりました。しかし、足利尊氏・楠木正成・新田義貞は本人たちの活躍もさることながら、知名度は低いまでも息子たちも英傑として立派に活躍しているのがすごいですね。
足利尊氏は翌文和2年には関東の状況を安定化させ、未だに流動的な京都へと戻ります。しかし、関東でも南朝方との戦いは続いており、基氏は鎌倉へとは戻らずに引き続き戦場近くに在陣します。この場所が入間川であったため、基氏は入間川殿と呼ばれるようになりました。つまり、この時点で「鎌倉公方」という存在は公的にも事実上も存在していませんでした。この入間川での在陣は6年に及びます。基氏が鎌倉に戻る時には20歳になっていました。

薩埵山体制と畠山国清について

基氏が入間川に滞在していたのは彼が10代の時ですので、政治の実務は執事の畠山国清が担っていました。この時期の鎌倉府の実務は足利尊氏によって任命された御家人が仕切っていましたので、観応の擾乱で尊氏が直義を打ち破った場所にちなんで薩埵山体制と呼ばれています。この畠山国清は決して無能ではありませんでしたが、どうも人望に欠けていたようでした。関東での南朝方との争いが長引いたのも、畠山国清に嫌った人々が南朝に味方したためとも言われています。
そんな国清は人望の無さによって失脚してしまいます。関東での南朝との争いが落ち着くと、国清は関東の御家人を率いて京都へと上洛し、畿内各地で南朝方と戦いました。しかし、この戦いに関東の御家人は不服であったようで次々に無断で帰国してしまいます。結果、畠山国清は関東の御家人からの不満を受けた基氏によって討伐されてしまいました。
しかし、国清の跡を継いだ甥の畠山基国は関東を捨てて京都に上り、後には足利義満によって管領に任命されて三管領が完成することになるわけですから、未来はどんな風に転がるかは分からないもんですね。

上杉憲顕と関東管領について

畠山国清を滅ぼした翌年の貞治2年(1363年)、24歳になった基氏は国清の後任として越後に追放されていた上杉憲顕を呼び戻し、新しく関東管領のポストに就任させます。ここに鎌倉公方と関東管領という、室町時代の関東の基本的な統治機構が確たるものとなりました。この上杉憲顕は足利尊氏・直義兄弟の母親の兄の子であり、従兄弟同士という関係にありましたが、観応の擾乱では直義に味方したために公職を剥奪されて越後に追放されていました。基氏は国清の討伐を契機に、幼少期に恩義のあった上杉憲顕を呼び戻して鎌倉府のトップに据えたのでした。既に父尊氏は他界しているとはいえ、この配置は父親の作り出した薩埵山体制を完全に否定するものでした。

足利基氏の死と鎌倉公方

貞治6年(1967年)4月、足利基氏はわずか28歳でこの世を去りました。奇しくも同年末には兄である室町将軍の足利義詮も死去しました。基氏の跡はわずか9歳の嫡子足利氏満が継ぐこととなりました。親が死ねば子が跡を継ぐのは当たり前に思えるかもしれませんが、基氏の存命中は鎌倉将軍という地位は存在しておらず、基氏が「鎌倉殿」と呼ばれることもありませんでした。鎌倉公方が、その存在を明確にしたのは、基氏から氏満へのバトンタッチによってと言えます。なぜなら、基氏が死去した段階で、室町将軍が直接関東管領へ指示する体制へと移行することもできたからです。そうならなかったのは、京都側の事情もあるかもしれませんが、基氏・憲顕の両名が作り上げた関東での政治機構が京都よりも安定したものであり、無理に体制を変更するよりも基氏の家系を鎌倉公方家として関東を任せる方が合理的といえる組織になっていたためと考えています。
南北朝の混乱期において、関東地方はいち早く騒乱を追えて足利氏による統治を確立させました。確かに、室町時代を通じて関東地方にもいくつかの戦乱がありましたが、基氏死去以後のものは鎌倉府の存亡に関わるようなものではありませんでした。基氏が死去した時点で、九州には南朝方の懐良親王が勢力を保ち、中国地方では大内弘世や山名時氏が南北朝の間を行ったりきたりし、東北地方では在地の武士たちが自由気ままに争っていました。わずか28歳の短い人生の中で、関東地方に確たる政治機構を作って政治を安定させた基氏の功績はもう少し評価されても良いのではないかなと感じています。



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