百人一首62 夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ

百人一首(Wikipediaより)

前回の記事が思いのほか好評だったので、浮かれて第二弾です。今回は枕草子で有名な清少納言の一首です。この一首も、その背景を知ることで、いっそう深く楽しめる一首です。

夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
清少納言



内容
この歌の内容を理解する前段として、「逢坂の関」を知っておく必要があります。逢坂の関は京都と大津との間にあり、東日本から平安京へ赴くには必ず通らなければならない交通の要衝でした。ですので、当然、関所があります。昔の関所というのは日中は開いていますが、夜になると閉じてしまうものでした。また、「逢坂」という漢字から「男女が逢う」という意味で短歌に登場するようになりました。
それを踏まえて、この歌の内容を説明すると「まだ夜なのに鶏の鳴きまねをして朝だと勘違いさせるような謀略をもってしても、私はあなたとは男女の仲にはなりません」というお断りの一首になるのです。では振られたのは誰かというと、藤原行成という男性です。

孟嘗君
この一首ができるまでの経緯は『枕草子』にも記載がありますので、非常に詳しくわかっています。その前に、この一首を深くしるために『史記』に登場する孟嘗君という人物を知っておく必要があります。孟嘗君とは中国東部の「斉」という国の王族で多くの食客を雇っていました。普通は学者や武芸の達人などを雇うものですが、孟嘗君は盗みの名人や物まね名人まで雇っていました。
ある日、西の大国「秦」が孟嘗君をスカウトしにきました(斉の王族を秦がスカウトするというのもおかしな感じですが、当時はよくありました。後には楚の王族ながら秦の相国になった後に楚王になった昌平君もいます)。孟嘗君は喜んで秦に赴いたのですが、秦に着くと秦王は心変わりして孟嘗君を殺害しようとします。
孟嘗君は秦から斉へ逃げるのですが、途中には函谷関という秦の難関がありました。朝未明に函谷関にたどり着いた孟嘗君一行でしたが、まだ日は昇っていないので関所はしまったままです。朝を待っていては追手の軍隊に追いつかれてしまいます。そこで、出てくるのが鶏の鳴きまねの達人です。彼の鳴き真似に勘違いした門番が関所を開けてしまったので孟嘗君一行は無事に追手から逃げ切ることができました。

経緯
さて、話はもどって藤原行成と清少納言です。二人は男女の違いはありますが古い友人です。ある晩も一緒に飲んでいたのですが行成が「明日は早いからそろそろ帰るわ」と早めに帰ってしまいます。清少納言としては古くからの友人とのせっかくの機会なので朝まで語り合おうという思っていたのに、早く帰ってしまったのが不満だったところに、翌朝の手紙で「長居しようと思っていたのに、鶏の鳴く声にもう朝だと勘違いして帰ってしまいました」という、すばらしく白々しい内容が送られてきました。
これに対して、清少納言は「孟嘗君が雇っていた鳥の泣きまねの達人でもいましたか?」と返すと、行成はさらに「孟嘗君が開けたのは函谷関ですが、私が開けたいのはあなたとの逢坂の関だ」とまたはぐらかす内容が返ってきました。そこで、この一首が生まれたわけです。
ということを考えると、これは本気の告白でも、本気のお断りメールでもなく、気の置けない友人同士の冗談半分の語らいかなと思っています。ずいぶんと知的ですが(笑)

清少納言
この一首の背景には清少納言が『史記』に精通していたということがあります。当時は男女で学ぶべきことは異なっていましたから、女性が漢籍(中国の古典)に詳しいというのは決してほめられたものではありませんでした。普通の女性であれば、学ぶ機会もありませんでしたので、清少納言はほかの女性とは異なる学問的背景を持っていたことになるかと思います。それが、『枕草子』という後世に伝わる傑作を作り上げたのかと思います。
一方で相手の藤原行成は高級官僚でしたので、史記などの古典に精通してることが求められたらんでしょうね。よく考えれば、史記って平安貴族からみても1000年前の作品なんですよね。

感想
この一首が生まれた時期は清少納言が二度目の結婚をした後かと思うのですが、それなのに夫以外の男性と艶やかなメールのやりとりをしていたというのは平安時代の貴族文化というのは、現代人が思っている以上にオープンだったんだなと感じています。
そして男友達とのやりとりが知的過ぎるあたり、当時の宮廷では浮いてたんじゃなかろうか?と余計な心配もしてしまいます。


今日のおすすめ
清少納言の枕草子は日本人のもののあはれに対する価値観を振り返るのには欠かせない名作古典だと思います。

枕草子

0 件のコメント:

コメントを投稿