百人一首68 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

百人一首(Wikipediaより)
昨日は身分違いの恋に破れた藤原道雅を取り上げましたが、一方で二人の恋仲を裂いた三条院とはどんな人物だったのでしょうか?

心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな
三条院



内容
この歌をシンプルに現代語訳すると「これからの人生はつらいことの連続だろうけど、それでもなお生き長らえるのであれば、今日のこの月夜はきっと恋しく思い出すだろうなぁ」という結構絶望に満ちている一首です。天皇の地位にあるにもかかわらずです。実はこの時、三条天皇は眼病をわずらっており失明寸前でした。この歌を読んでしばらくして完全に失明することになります。そんなわけで、「今日のこの月夜」はもしかすると人生最後に眺めた月夜になるかもしれないという思いがありました。この時まだ40歳程度ですから、まだまだ長い人生を目が見えない状況で過ごさなければならないことに絶望していたのかもしれません。三条天皇の健康を蝕んだのは、藤原道長との宮廷における熾烈な権力争いがありました。

三条院と摂関家
三条院と道長の関係を語る前に、当時の摂関家と天皇家の関係を説明すると分かりやすいかと思います。三条天皇が即位した当時は摂関政治全盛の時代です。その時の基本ルールは①自分の娘を天皇に嫁がせる、②生まれた孫をこどものうちに天皇にする、③大人になったら次の天皇に譲位させる、というものです。ここで大切なのは③です。いくら外戚ときはいえ、例えば30代の働き盛りの天皇が祖父のいうなりになるか?ということです。天皇が政治に興味を持つような年頃になったら、邪魔になるので譲位させてしまうのです。
そこで三条院の少し前の天皇からみていきます。
冷泉天皇:17歳で即位、19歳で譲位
円融天皇:10歳で即位、25歳で譲位
花山天皇:15歳で即位、17歳で譲位
一条天皇:6歳で即位、31歳で譲位
三条天皇:35歳で即位、40歳で譲位
後一条天皇:7歳で即位、28歳で譲位

こうして見ると、三条天皇の即位の年齢が前後に比べて明らかに高いのが見て取れます。これは天皇をコロコロ入れ替え過ぎて、一条天皇が即位した時点で皇位継承権のトップは年長の従兄弟居貞親王となりました。しかし、この居貞親王の母親は藤原氏でしたが、早くに母親を亡くしており、摂関家のコントロールが効きにくい状況でした。一方で一条天皇と摂関家の関係は非常に良好でしたので、摂関家としては一条天皇を譲位させるよりも、長く在位してもらうことを選びました。ですので、一条天皇はこの時期には珍しく亡くなる直前まで天皇位にありました。
一条天皇が31歳で崩御すると、三条天皇が即位しました。このとき、後に後一条天皇として即位する一条天皇の忘れ形見は、まだ3歳でした。しかしながら、時の権力者藤原道長は自分たちが制御しにくい青年天皇をいち早く取り除きたく、即位後からアレコレとプレッシャーをかけてきました。
摂関家からのプレッシャーに加えて、眼病による失明の危機、体調不良、さらには溺愛してた娘が斎王に選ばれて離れ離れになるという極めて辛い環境下に三条天皇はありました。そして、遂に失明を迎え、政務が行えないからと譲位せざるを得なくなりました。
そんな中で、愛娘が斎宮から3年ぶりに戻ってきたというのは三条天皇にとって一筋の光明だったかもしれません。ところがです。そんな愛娘に摂関家の人間がちょっかい出してたわけです。天皇位を藤原氏に追われたのもつかの間、まだ15歳の愛娘まで藤原氏が奪っていこうとしたのです。心情として絶対に許せないものがあったでしょう。そうして間もなく、長らえる事もなく、失意のままに人生を終わらせる事になります。一つの恋愛も見る角度が変われば大きく印象が変わるかと思います。

妻問婚と摂関家
摂関政治といえば外戚という概念が欠かせません。自分の娘を皇后とし、孫を天皇にするやり方ですね。しかし、不思議ではありませんか?なぜ、母方の祖父がそんなにも影響力があったのでしょうか。これには当時の結婚制度が影響していたと考えられています。
平安時代中期までの日本は妻問婚と呼ばれる、男性が女性の家に通う結婚形態でした。なので、男性が足繁く通ってる時は結婚中で、来なくなったら離婚という何とも緩い結婚形態だったようです。なので、天皇の子供は基本的に母親の家庭で育てられます。なので、寝食を伴にした母方の祖父の影響力が大きかったんですね。で、あれ?と気付く方も居ると思いますが、妻問婚なのに何故祖父が居るのでしょうか?これは、この時期になると一人の女性と添い遂げると決めた人は、嫁さんの家で同居するように成っていたらしいのです。そりゃ、孫が天皇となれば、その家庭に入り浸りますよね。
そんなこんなで権力の全盛期を築いた藤原氏。道長は「この世をば 我が世と思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」という傲慢な歌を披露したりもするのですが、月は満ちれば必ず欠けるもの。この後、摂関家の権力は下り坂となり、権力は父系すなわち上皇に移っていきます。奇しくも結婚形態が嫁入婚に変遷していくのにあわせての権力構造が変化していきます。果たして、両者に関連はあるのでしょうか。





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