百人一首59 やすらはで 寝やましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな

百人一首(Wikipediaより)
昨日に引き続き中宮彰子の女房から『栄華物語』の著者赤染衛門の一首を紹介します。
やすらはで 寝やましものを さ夜更けて かたぶくまでの 月を見しかな
赤染衛門



内容
この歌は非常にわかりやすい恋の歌です。「今晩あなたが来るかもしれないと思うと、そわそわしてちっとも寝ることが出来ない。夜も更けて、月が西に傾いてもうそろそろ朝を迎えてしまいそうだ」という当時ならではの恋心を歌っています。現代ならLINEで「今晩うちくる?」って確認できちゃいますからね。思うように連絡が取れない、コミュニケーションが出来ない中での恋愛の楽しさというのは現代人はもう経験できないものなのかもしれません。
作者の赤染衛門は赤染用時の娘で大江匡衡に嫁ぎます。夫婦仲はきわめて良かったようで、未亡人の紫式部からは「匡衡衛門」などと揶揄されています。出身家も嫁ぎ先も中流貴族であり、上流貴族である「公卿」にはなれない身分でした。ですので、自らの屋敷で奥様として鎮座するわけにもいかず、中宮彰子のものて女中としてせせっと働くのでした。
清少納言や紫式部もそうでしたが、赤染衛門も知識人としてすばらしい功績を残りました。『栄華物語』といる正史にも並んで評価される歴史書を執筆したといわれています。当時、中流家庭に生まれた女性にとって、和歌や学問などを身に着けることは夫に頼らずに自らの力で生活できるだけのキャリアを築くのに重要なスキルだったように思います。

栄華物語と歴史書
栄華物語は歴史物語なわけですが、対象としていた時代は宇多天皇の治世からでした。日本に律令制度が導入されると同時に、中国の「史書」の習慣も日本に導入されました。これは、先代の王朝の治世を、次代の王朝が「正史」として正式な歴史書にまとめて記録するというものです。日本では日本書紀に始まり、日本三代実録までの6種類の歴史書があり、これを「六国史」と読んでいます。六国史の最後である日本三代実録は宇多天皇の時代に菅原道真らの手によって編纂されました。しかしながら、これ以降朝廷の権威が低下し、藤原氏が栄華を誇るようになってからは、新しい国史は編纂されなくなりました。その100年後に日本三代実録の次の歴史書として登場したのが、この栄華物語です。この書物は六国史とは異なり、正式な史書ではありません。しかし、政府が中断していた事業を一女性が継承して作品を作り上げるというのは、相当な苦労があったのではないでしょうか。
この栄華物語は藤原道長の全盛期を知る赤染衛門によって執筆されているため、藤原道長を非常に高く評価しているそうです。しかしながら、残念なことに僕はまだ、栄華物語を読んだことが無いので内容についてはコメントできません。

御堂関白記
そこで、藤原道長本人が残した日記を見ていきたいと思います。ちょうど、一昨日に電子書籍で購入したのでぜひとも紹介したいところでした。これを読むと道長が権力争いに明け暮れていたわけではなく、国のトップとしてきちんと政務に取り組んでいたことがわかります。というより、ほとんどの貴族がまともに働いていない中で、しっかりとリーダーシップを取っていたことが権力につながったといえるかと思います。
以下にいくつか心に残った部分を引用します。あくまで一部ですので、前後にはもっと文章がありました。

998年7月9日:而不参上卿一人。(公卿は誰一人、会議に出席しなかった)
998年7月10日:左大弁一人候。(出席者は左大弁一人だけ)
999年1月3日:承事申定召諸卿不参。(公卿に会議出席依頼をかけたが、誰も参加せず)
999年11月16日:而納皆不参。(打ち合わせに幹部が参加せず)

とまあ、公卿たちが朝廷で重要な意思決定をする場をちょこちょこサボっていたようです。現代風に言えば、経営会議にCEOしか出てこない感じですかね。これが、周囲の公卿がやる気のない凡クラだったのか、道長が嫌われていたのかは定かではありません。きっと半分半分の理由だったでしょう。それでも、きちんと政務をこなしていた道長に対しては自然周囲も高い評価をするようになりますよね。

日本語の成立
さて、通常平安時代の文章を引用する場合、読み下し文で書かれることが多いですが、あえて原文を常用漢字に直して記載しました。もうお分かりかと思いますが、日本語ではなく漢文で書いてあります。しかも、文法としては間違っている漢文もちょいちょいありました。これが平安時代の男性が書く文章のスタンダードです。当時は中国こそ世界の中心でしたから、正式な文章や知識人の文章というものは漢文で書くものだったのです。
一方で女性たちはどうだったでしょうか。枕草子の一文を引用します。

七日、雪間の若菜罪、青やかにて、例はさしもさるもの目近からぬ所にもて騒ぎたるこそ、おかしけれ。
こちらは、より日本語っぽいですね。ただ、一点現代の日本語とは違う特徴があります。それは漢語が無いことです。いわゆる漢字の熟語ですね。男性とは逆に女性には和語が重要視されていたようです。
時代は下がって鎌倉時代末期の徒然草を見てみましょう。

神無月のころ、栗栖野といふところを過ぎて、ある山里にたづね入ると侍りしに、遥かなる苔の細道を踏み分けて、心細く住みなしたる庵あり。
徒然草の作者は兼好法師ですが、この時代になると男性も漢文でわなく、和文を書きます。しかも、枕草子と比べると、少し読みやすくなっていると感じられるのではないでしょうか?平安時代末期から鎌倉時代にかけて、漢文と和文とが混ざり、「和漢混淆文」と呼ばれる、今の日本語の原型が出来上がりました。



0 件のコメント:

コメントを投稿