百人一首63 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな

百人一首(Wikipediaより)
昨日の儀同三司母の歌の続きです。藤原道長との権力争いに敗れた中関白家、さてその後はどうなったんでしょうか。
今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな
左京大夫道雅



内容
この歌は身分違いの恋に破れた男の話です。作者は儀同三司の孫藤原道雅です。左京大夫という役職にあったのですが、今で言う東京都都知事の半分(左京だけ)のようなポストです。祖父が関白、父が内大臣と比べると大きく格が落ちてます。企業でイメージすると祖父がCEO、父も執行役員だったのに、自分は支店長みたいな感じです。
そんな道雅が恋をしたのは三条天皇の娘当子内親王です。身分違いの恋ですが、小説や映画などとは異なり実際の恋は成就することはありませんでした。父三条天皇の逆鱗に触れて二人の仲は引き下がれました。この時通正24歳、当子15歳。まだ若過ぎた恋だったのかもしれません。
道雅は二度と当子と会う事を許されませんでした。ということで、この歌の内容は「今はただ、あなたの事を諦めると言うことを、誰か伝えてください」という物悲しい結末にふさわしい一首となっています。その後、当子内親王は21歳の若さでこの世を去ることになります。
一方で、藤原道雅はその後荒れに荒れ、あまりの暴れっぷりに「荒三位」というあだ名で呼ばれるようになってしまいました。彼の子孫もパッとせず、歴史の中に埋もれて行きました。

斎宮と伊勢神宮
道雅の恋の相手の当子内親王とはどういう人物だったのでしょうか。当時の彼女は伊勢神宮の巫女としての勤めを終えて平安京に戻ったばかりでした。伊勢神宮には代々皇族の女性が斎王という巫女として神に仕えるという習慣がありました。伊勢神宮の斎王を特に斎宮と呼びます。
彼女も12歳で斎王に任命され、3年ほど伊勢神宮にいました。この、斎王は別に決まった任期があるわけではなく、当時の習慣として天皇の娘が任命されていたので、父親が譲位するまでが任期となっていました。三条天皇が早くに譲位したため、彼女も15歳で任務を終えることとなりました。同じ斎王でも宇多天皇の内親王などは30年以上も務めていたりしました。
この斎王という習慣は第10代崇神天皇が氏神である天照大神を祀るための神宮を作ったのが始まりと言われています。西暦に直すと紀元前90年くらいの弥生時代中期です。考古学の研究とは齟齬がありますので伝説でしょう。とはいうのも、645年の乙支の変で、行政文書や過去の記録は失われており、それ以前の歴史は8世紀につくられた古事記、日本書記しかない状況です。伝承ベースの記録になりますので、時間についての正確さは期待できません。実際に確認できるのは、古事記や日本書紀が作られたのと同じ時代からです。なんで、元々あまりルール化されてなかったものをルール化するにあたり、昔からあったんだってアピールしたかったのかもしれませんね。
なお、現代では斎王は一般公募してますので、興味のある方は応募してみてはどうでしょうか?
http://saioh.sub.jp/izen/33/33.html

0 件のコメント:

コメントを投稿