「平清盛」の「王家」呼称について


とっとダイアリーより転載

大河ドラマ平清盛で用いられていた「王家」という表現ですが
早速、2ちゃんねるとTwitterを中心とした層から
反日的だとか不敬だとか避難が殺到していますね。
この「王家」という表現について私見をまとめておきます。

まず、「王家」という表現が歴史上正しいかどうかと言えば
鎌倉時代の資料などには登場しているので
全く存在していない用語であったとは言えまえせんが
じゃあ、当時一般的な用語だったのかは不明です。
そこらへんの見解は以下のサイトが
うまくまとめてありました。

「王家」の呼称についての連投一覧

なので、ここでは今回の大河ドラマでは
なぜ「天皇家」という現代では一般的な用語ではなく
「王家」という用語が用いられていたのか
ドラマ制作陣が意図しているであろう点について
僕の見解をまとめておこうと思います。

まず、理解しておかないといけないのが
平安時代というのは律令国家が形骸化し
実質的に貴族制の国家体制となっていた点です。

日本史を俯瞰的に学ぶ事無く
右翼的な視点で日本史を学んでしまうと
古代国家における天皇制と近代の天皇制のみを知り
それが日本の歴史上の普遍的な体制となっている
と誤解しがちです。

近代日本の天皇制は「王政復古」の思想のもと
奈良時代の律令制を基に西洋の貴族制度を反映して
明治時代になって人工的に作られたものです。
そして「復古」と呼ばれているとおり、
それは平安時代から江戸時代までの
中世・近世における国家制度とは大きく異なっています。
ですので、中世の日本の天皇制度がどのようなものだったか
それを理解しなくては適切な議論が出来ません。

平安時代の天皇家を考える上でまず重要なのは
「妻問婚」という結婚制度です。
現代のようにで夫婦が世帯を構えるのではなく、
夫が妻の実家に「通う」というという結婚形態です。
もちろん子どもたちは妻の実家で育てられます。

ということは、平安時代の天皇は「家長」として
天皇家という家を治めていたのではなく
母親の実家に間借りしていたわけです。

平清盛に登場する白河天皇の治世より以前の
藤原摂関家の全盛期においては、
天皇とは摂関家に居候して君臨するだけの存在でした。

僕は、この時代においては「王家」はおろか
「天皇家」という家の概念は存在していなかった
のではないかと考えています。
だって、実体として存在していないんですもん。

で、摂関家から国家の実権を奪い取って
当代の覇者となったのが白河天皇です。
大河ドラマでは伊藤四郎がいい感じで演じていました。

彼は若いうちに息子の堀河天皇に譲位し、
上皇として「天皇家の家長」となりました。
これによって外戚に支配されていた天皇という位が
天皇家を中心とした父系集団として形成されたわけです。

物語の序盤は、白河法皇・鳥羽上皇が天皇家の家長
これを歴史用語では「治天」と呼びますが、
治天として君臨していました。

つまり、今回のドラマの時代とは
「治天」と呼ばれる存在が天皇の上に君臨し
天皇が日本のトップではない時代なのです。

では、この時代に「天皇家」という呼び方が
一般的な呼称だったのでしょうか?

僕は「天皇家」という呼び方が
当時は存在していなかったではないかと思うのです。
理由は明確で家長は天皇ではないからです。

近代以降、譲位という制度がなくなりましたので
天皇陛下が天皇家の家長であるという事が
社会一般に当然の事として受け入れられていますが
中世においては天皇家の家長は「治天」であり
それは天皇の尊属であるというのが一般通年でした。

したがって、承久の乱で治天であった後鳥羽上皇が廃されると
後堀河天皇が天皇として即位すると同時に、その父親が
後高倉院として上皇となって院政を行いました。
かれはもちろん天皇にはなっていないが上皇になったわけです。
これはつまり、治天という天皇家の家長が
天皇とは別に存在するのが一般化していた
という事の証左になると考えます。

今回の大河ドラマでも天皇家の家長として君臨しているのは
天皇である鳥羽天皇ではなく、治天の白河法皇である
ということを意識づけるためにも
敢えて馴染みのある「天皇家」という表現を避け
異論の出てくるであろう「王家」を用いたのではないでしょうか。

ここから鳥羽上皇による院政と崇徳帝への圧迫、
崇徳上皇と後白河天皇による保元の乱、
後白河院政と外戚としての清盛、
と「治天」と「天皇」という対立軸が
物語において重要なファクターを占めてくるわけで
「後白河法皇の天皇家」と「安徳天皇の平家」の対立
とかかえって解りにくくなるわけですから
やっぱり「王家」という方が後半になれば
しっくりくるんじゃないかと思っています。


で、どうしても「王家」という表現が嫌いな人たちも
少なからずいるかと思います。
そういう方へのアドバイスです。

「皇」も「王」も同じく「オウ」と読みます。
中世の日本において同音の漢字というのいうは、
縁起や書きやすさなどで、よく起きかえられていました。

たとえば、「葦の多く茂った田んぼ」をあらわす「葦田」という名字は
現在では「吉田」という縁起のよい文字に帰られています。

当時の史料に「王家」という表現があるわけですが、
これは正確には「皇家」という書くべきところですが
「親王家」は「王」だったりしなければならず
いちいちかき分けるのが面倒だからという事で
「皇」という字を使わずに「王」に統一したからではないでしょうか。

なんて、書くと「面倒だから」なんて理由かよ
と思うかもしれませんが、日本史における史料とは
殆ど全てが日記と、それをベースにした二次史料です。
誰かに公開するでもない日記を書くのに
いちいち誤字・脱字を正確に記載するなんてことは
よっぽど几帳面な人以外は無いんじゃないでしょうか。
特に、漢字を別の字で当てはめるのが普通だった時代には。

ということで、結論ですが
「おうけ」という呼び方を「王家」と書くことに違和感のある人は
あれは「皇家」と書いて「おうけ」と呼んでいるんだ
と思って勝手に納得してもらえればと思います。

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