宝永地震と低成長時代

録画してあった「さかのぼり日本史」の宝永地震の回を見ました。
それまで新田開発による量的な農業生産量の拡大を軸に
高度経済成長の恩恵を受けていましたが、
震災と津波によって田畑に甚大な被害があり
新田開発にかわって1町あたりの収穫高の向上と言う
改善活動による生産量の向上に変わったという話でした。

今回は取材場所が岡山や近畿だということで
宝永地震にスクープをあててはいましたが
同時期に東日本では富士山の噴火があったわけで
東西それぞれに大規模な自然災害があったことを
描かずに西日本だけの話を日本全国にあてはめるのは
ちょっと疑問が残りました。

また、自然災害の結果として新田開発は減りましたが
その理由についての深堀もあまりなかったので
なぜ減ったのかが良く理解できませんでした。

それでも、量的拡大から質的拡大への転換
というのは日本の文化的特性を考える上で
一つ重要なトピックであると考えています。

というのも宝永地震で幕を開ける18世紀は
小氷期という寒冷化の時代であって
世界中で農業生産の停滞にもかかわらず
人口が増加してしまうという状況でした。

つまり、増え続ける人口を維持するために
不足する食糧の確保をどうするかが
重要な国家経営の課題となっていたのです。

そんな中で、欧州諸国は植民地経営という
量的な拡大によって19世紀に繋がる
ヨーロッパの繁栄の基盤を構築しました。

これはアフリカ人の奴隷を前提としており
外国人から搾取することで自国民を養う
という重商主義的な政策といえます。

一方で日本は農業の生産性を高めるという
重農主義的な政策で乗り切りました。

で、何が言いたいかと言えば
今のグローバル化社会の中で
新興国を中心の量的なマーケットの拡大に対して
日本企業が出遅れているという評価がありますが
日本と言う国は量的拡大よりも質的拡大を重視した
社会を構築してきたわけですから
今現在では立ち遅れていたとしても
新興国の成長が鈍化してくるようになった際に
むしろ日本企業がシェアを伸ばすんじゃないか
と楽観視しています。

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