平清盛感想~悪左府とコンプライアンス

遂に今週から悪左府こと藤原頼長が登場しました!
しかし、思ったより悪左府前回という感じでもなく
思ったより全うな人物のような感じでしたね。

また、清盛とは敵対しつつも信西とは共感しあう
といった雰囲気が出ていたのも面白かったです。
保元の乱まで、頼長と信西は方向性は違えども
今の政治体制を改めようという改革派であり
時に手を取り合い、時に対立しあうのでしょうね。

で、今週の内容を見ていて思い出したのですが
日本といい中国といい「コンプライアンス重視!」
っていう人は当時から人気が無いですよね。

だいたい悪役が「ルールが大事だ!」って厳しく取り締まって
主人公の側が「そんなルール破ってしまえ」って破天荒に振る舞う
っていうのが小説なんかによくあるパターンです。

法治主義がどちからというと、ルール原理主義的であり
個々の実情にあわせた判断が出来ない硬直化したものという
ネガティブな印象を持たれているのが東洋社会かと思います。

一方で、西洋では法治主義というのは、人々が契約に基づいて行動し
ルールに違反すれば罰せられ、ルールを守れば保護される
というポジティブな印象となっています。

この違いは何なのかなぁと考えてみると、
東洋と西洋とでの「権力」に対する歴史の違いなんだろうな
という風に感じています。

西洋というのはキリスト教の歴史です。
なので、ゲルマン系の諸民族がキリスト教化しつつ
今のヨーロッパ社会を構築していく中で
まず出てきた考え方というのは「王権は神が教会を経て王に付与している」
という教会に対して非常に強い権限があるという考え方でした。

そのため、ローマ皇帝はバチカンでの戴冠よって初めて皇帝になれ、
教会と対立したために破門された皇帝ハインリヒ四世は
破門によって政治権力を失い、「カノッサの屈辱」が起きました。

それが、16世紀くらいに国王の力が強くなってくると
「王権神授説」が生まれ、王権とは王が神から直接権力を得ており
教会の承認なく自由に統治が行えるという政治思想が生まれ
絶対王政と呼ばれるヨーロッパ貴族社会の頂点を迎えることになります。

この時点で、国王は神から白紙委任状を渡された状態でおり
自らの意思によって自由に法を定め、人を罰することが出来ました。

しかし、それに対するアンチテーゼとして社会契約説が力を持ってきました。
これは国王の支配権は国民との「契約」によって成り立っているものであり
その契約こそが「法律」であるわけで、国王もその行動は法律よって制限されるわけです。
つまり、法律とは独裁を防ぐために国民が勝ち取った権利の象徴ともいえるわけです。

したがって、国民の権利を守るための法律を軽視するというのは
批判されるべき行動ということになり、だからこそ、
欧米社会というのは契約を重視し、また独裁政権というものに
強いアレルギーを示しているんじゃないかと僕は考えています。


ヨーロッパで16世紀から17世紀に確立してきた現代につながる政治哲学は
東洋ではそれよりも2000年ほど前の春秋戦国時代に基礎理論が生まれ、
それから500年ほどした紀元前200年頃に前漢が作られた事で
現代に繋がる東洋の基本的な政治思想が確立しました。

あまりに時代が古いので細かな経緯は最早わかっていませんが
その大きな流れとしては儒家による徳治主義と法家に法治主義との
対立の歴史であるともいえます。

全国に法治主義を徹底させた秦が7国を統一して統一王朝をうちたてますが
法治の徹底のより却って人心を離反を招いてわずか15年で滅びてしまいました。
これは法治主義というのは性悪説にたっているため、国民は法律を守りたがらない、
だから守るように、破ったときの罰則を厳しくしようとしてしまったため
過失であって法律に違反してしまった場合、素直に罰を受けるよりも
やぶれかぶれで反乱を起こした方が生き残るチャンスが大きいとなってしまったためでした。

その後、劉邦によって作られた漢王朝は法治主義と徳治主義とを補完しあった
徳治法治主義とも言える政治体制を築きあげました。

これは、皇帝に徳があるから国民は皇帝の指示に従うので細かいルールはいらない
という徳治主義の考え方をベースにして、それでも悪人というのは居るので
ルールに違反する悪人を律するために法律でもって取り締まろうというのが東洋の考え方です。

というわけで、
西洋では為政者を制するために法律があり、
東洋では悪人を制するために法律があるという違いが
法令順守を強く求めてくる人に対する意識の違いとして出てくるのでは
というのが僕の考え方です。

ここで、一つ東洋と西洋とで異なる点が出てきます。
西洋では為政者の独裁を防ぐために法が作られましたが、
東洋では皇帝の独裁は喜ばしいことであり、それを制限するという考え方は生まれませんでした。
なぜなのか、ちょっと長いですけど僕の考えをまとめておきます。

東洋では絶対王政に対するけん制として「革命権」が古くから認められてきました。
皇帝が悪政を行うのは天命が離れたからであり、新しく天命を得たものが皇帝になり代われる
と言う考え方をされてきたため、法律が敢えて皇帝の政治を制限する必要がなかったのです。

では、なぜ西洋では革命権が社会契約説の発展までまたなければならなかったかといえば、
王権の由来となっているのが、東洋の「天」と西洋の「神」との違いが大きいと考えています。

キリスト教においては神とは全知全能なる存在であり、また唯一の存在です。
実体はありませんが形而上に「存在している」わけで、そこが重要になってきます。
神は判断を誤らないので一度与えた王権をはく奪することは無いわけです。
神が王権を与えたのであれば、その王権は絶対的なものになってしまいます。
だから、王権は神からではなく、国民との社会契約によるものだという考え方が出てこないと
革命権という考えにまで発展することはできません。

一方で、東洋では神ではなく天が王権を賦与します。
天とは太陽であったり天候であったり気象であったりと自然の一部なのです。
漠然としたイメージはあっても何か固有のものを指し示すわけではありません。
ここがキリスト教社会とは大きく異なるところであると思います。
自然ですので、その時その時に応じて様相が変わるのは当たり前です。
自然が生物の制裁与奪権を握っているように天命をも変えていくわけです。

でも、日本では革命権が認められてこなかったのかと言えば、
革命思想というのが外来の思想であり、一般大衆には浸透しておらず
悪政に対する革命が当然の事として受けられていない上に、
中国の皇帝のように天皇に権力が集中した社会ではなかったので
革命なんか起こして大変な思いをして新しい天皇になるよりも
天皇と仲良くなって、裏方で政治を牛耳って利権を得る方が
余計な敵を作らなくて楽ちんだというのがあったからだと思います。

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