幕末についての整理~その2

前回からの続き。徳川幕府についての説明に続けて、幕末の状況について整理していきます。ここで幕末とは嘉永6年のペリー来航と定義したいと思います。

天保の改革の挫折
ペリー来航の2年前に元老中の水野忠邦が死去します。彼は徳川幕府の三大改革の一つ「天保の改革」で知られています。彼と同時代には遠山の金さん、大塩平八郎、華屋与兵衛などが居ます。

阿部正弘老中首座
この時期、老中首座にあったのは阿部正弘です。大河ドラマ篤姫で草刈正雄が演じていました。この頃になると、一民間企業だったはずの幕府がいつの間にか国家そのものと同一視されるようになっていました。そうなると、これまで幕政に参加してこなかった親藩や外様大名の有力者も幕政に参加させるように圧力を掛けてくるようになります。

ペリー来航と安政の改革
ちょうど、この時期にペリーが来航しました。阿部正弘はこの一大事に譜代大名だけではなく、親藩や外様大名に幕政に参画させると共に、有力な旗本をどんどん抜擢しました。これがパンドラの箱を開けてしまいました。これまで譜代大名を中心とした幕府統治のガバナンスが崩れたのです。以降、有力者たちによる権力簒奪の争いが始まります。この争いの最終的な勝者が大久保利通でしたが、この時点で彼は貧困のどん底にいました。

派閥争いの軸
この時点での派閥争いの中心となるのが水戸徳川家の徳川斉昭です。御三家の一員でありながら、水戸学の影響で熱烈な尊王攘夷論者、そして息子の一橋慶喜は将軍候補という存在です。御三家でかつ攘夷派の彼が、ペリー来航によって海防参与という公職に付きます。これによって、彼を中心に「譜代VS親藩・外様・旗本」という内部の権力争いの軸と、「開国VS攘夷」という外交問題の争いが発生します。この時期の権力争いには2種類の軸があるということを理解しておくのが非常に重要です。

状況をMECEに整理すると、譜代・親藩・外様・旗本 × 開国・攘夷・超攘夷の12パターン出来るのですが、実際に大勢に影響のあった3勢力で整理します。

譜代・開国派
この時点で一番有力なのは、開国指向の譜代大名です。阿部正弘の跡を継いで老中首座になった”蘭癖”堀田正睦を筆頭に、松平忠固、松平乗全といった面々です。日米和親条約締結後には、これからの日本は外国と積極的に交易をする必要があると考え、日米修好通商条約の締結へと邁進していきます。ちなみに、これらの開国について「幕府は鎖国を国策としていたが、外国の圧力に負けて開国した」と良く言われますが、それは彼ら開国派を抑えられなかった攘夷派のロジックです。実際には、積極的な開国をしていました。とくに、日英和親条約などは、イギリス側の軍艦がクリミア戦争に関連して長崎に寄港したことを良い事に、現場同士で勝手に締結してしまった代物です。

余談ですが、松平忠固の二男忠厚は渡米し大陸横断鉄道の建設に関わっていました。その子どもはアメリカで市長も務めていたそうです。

譜代・攘夷派
こここそ幕府の保守本流です。大老井伊直弼がその筆頭です。攘夷といえども幕政に身を置いており、完全な鎖国は難しいと理解しています。それでも出来る限り外国との往来は限定すべきという考え方で、今でも幕末当時の考え方として広く知れ渡っている考えです。彼から見れば、開国派も親藩&外様連合も叩き落とすべき政敵です。攘夷に関しては孝明天皇を初めとして朝廷の多くもこの考え方に似ていました。


親藩&外様・攘夷派
この勢力の中心は水戸の徳川斉昭、薩摩の島津斉彬(篤姫の義父)です。他に福井の松平慶永(開国派に点心)、尾張の徳川義勝、一橋慶喜などで、主体となったのは親藩の面々です。彼らは幕政の中心に居なかったがために、特に徳川斉昭に見られるようにより積極的な攘夷派であり、通商を行うことそのものにも反対でした。

ということで、ここまで幕末を知る上でのバックボーンを整理してみました。
引き続き、日米和親条約から安政の大獄くらいまでの整理してみます。

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