任那日本府について

週末に「さかのぼり日本史」で白村江の戦いについてのビデオを見てから
僕の頭の中は半分くらい任那日本府についてで占められてしまいました。
というのも、任那日本府及び倭国の朝鮮半島での活動状況と
古事記や考古学の研究から浮かび上がってくる倭国の状況とが
どうにもうまく合致してこないからです。

日本の歴史教育では日本史と世界史とを別々に教えているため
日本の出来事は日本視点での重要性から取捨選択され
世界での出来事は世界における重要性から取捨選択されるため
五胡十六国時代の満洲・遼東・朝鮮半島といったエリアは
全くと言って歴史教育では習わない時代・地域ですので
ここらへんのギャップというのはぱっと見では分かりづらいです。

まず違和感を感じるきっかけになったのは高句麗好太王の碑文です。
この碑文は日本史では必ず習うものですので聞いた事があるかもしれません。
好太王の碑文には繰り返し「倭国を破った」という記述が出てきます。

399年
 倭国が百済と同盟関係になったので百済を討とうとしたら
 新羅の首都に倭国軍が攻めてきた。

400年
 新羅の首都にいた倭国軍を追い払った。

404年
 倭国軍が今のソウルあたりに攻めてきたので打ち破った。

という形で、4世紀後半から5世紀前半にかけて
倭国軍が定期的に朝鮮半島にて軍事行動をしていた
といった事が推測されます。

今度は中国の史料を見てみると、439年に編纂が開始され
極めて史料価値の高い『宋書』に倭国の記載があります。

421年
 倭王『讃』を「安東将軍」に叙する。
 ※安東とは高句麗の支配地域のこと

438年
 倭王『珍』から「使持節都督」と「安東将軍」への叙任依頼が来る。
 倭王『珍』を「安東将軍」に叙任する。
 ※使持節都督は詳しくは倭・百済・新羅・朝鮮半島南部の軍事支配権の追認のこと
  この時点で百済、新羅は日本の影響下にあったと考えられる。

443年
 倭王『済』を「安東将軍」に叙する。

451年
 倭王『済』を「使持節都督」に叙する。安等将軍はそのまま。


とまあ、中国側の歴史書を見る限り、倭国というのは
今の日本・韓国の領域を支配しており、高句麗征伐の大義を貰うべく
さかんに中国に入貢していたということが解ります。

つまり、朝鮮・中国の史料から見ると日本というのは
建国された当時から、そこそこの大国だったというわけです。


そんじゃあ、翻って日本側の史料はどうなってるんだろうか?
となると、まずもって当時の日本には文字が無いわけで
一切の文書類は残っていないわけです。
文章による最古の記録は古事記と日本書紀ということになるのですが
これらは成立が8世紀前半と300年近くもあとの年代であるということ
「日本国」創世の時期であり、当時の政治的意図が多く含まれている点などがあり
6世紀初めの継体天皇より前の記述については信憑性に疑問があるものです。

なので、4世紀~5世紀の日本については歴史書よりも考古学史料をベースに
当時の様子を浮かび上がらせることが望ましいわけですが、
そもそも文書史料が残ってないような時代という点だけでみても
日本が対馬海峡をわたって朝鮮半島南部を支配しただけの力があるのか
と僕は疑問に思ってしまいます。

でまあ、4世紀、5世紀の日本の考古学上の重要トピックといえば
そりゃもう「古墳」しかないですよね。
特に前方後円墳はヤマト王権の勢力拡大と対比関係にあると言われ
前方後円墳が建造された=ヤマトの勢力下にはいったと考えられています。

それじゃあ、その古墳がどんな様子で普及していったかと言えば
3世紀中ごろに奈良周辺に前方後円墳の誕生が見られて
4世紀に入ると徐々に日本全国に広がっていき
5世紀前半には一気に大型化するとともに副葬品が軍事的なものに変わってきた
といったような経緯となっています。

また、3世紀中ごろに奈良盆地に出来あがったヤマト王権は
徐々にその影響力を東西に伸ばしていくわけですが
実は西日本では吉備や出雲などは直接的な支配ではなく
在地の支配層はそのままに緩やかな連邦形態だったと考えられています。

そんなヤマト王権の勢力が九州まで伸びてくるのが4世紀初頭。
通説で行けば、ヤマト王権はそのまま海を越えて朝鮮半島に渡り
南部のクニを支配下に治めただけではなく百済や新羅といった
当時国としての形を為してきた勢力まで支配下としたわけです。

そんな状況においても吉備国や出雲国といった
ヤマトの近くにある勢力に対しては直接統治は出来ていませんでした。

っていうのは、やっぱり何か無理がある気がするんです。
そりゃ、日本国というのは万世一系でありたいという願望は理解できますが
頭の中で当時の状況を描いてみた時に、どうにも腑に落ちないんです。



で、そうやって批判だけしていてもしょうがないので
ざっくりばっくりとした僕の仮説も合わせて書いておきます。

まず、僕が考えたのは中国・高句麗の言う「倭」と「ヤマト」とは
最初の段階においては別物なんじゃないかと言う事です。

つまるところ「倭」とは九州北部から朝鮮半島南部の任那までの一体のことであり
魏志倭人伝や高句麗好太王碑文の「倭」とは大和朝廷とは別物だという事です。

いや九州と朝鮮半島が同じクニとして存在することはないだろう
と現代の国境線や民族構成から見てしまえば否定できてしまうのですが
当時の状況は現在とは全く異なっているわけです。

たとえば新羅は後漢末から三国時代に中国から避難してきた難民の国です。
そんでもって百済・高句麗は満洲北部から南下してきた北方系の民族です。
「朝鮮人」というアイデンティティが生まれてくるのは
その後、新羅によって朝鮮半島が統一されてからのことで
当時は「朝鮮」と「日本」という認識はどちら側にもありませんでした。

で、対馬半島の両岸地域については縄文時代後期から文化の共通性が見られるようになってる上
弥生時代においては朝鮮半島の鉄を輸入するということで
実は対馬海峡というのは思っている以上に頻繁に人の交流があったのです。

また、ここは僕の勝手な妄想になりますが北九州の弥生人というのは
新羅と同じように周王朝末期の政治的混乱と気候の寒冷化によって
東へと流れてきた難民たちの末裔ではないかと感がています。
(DNA鑑定では、この仮説は否定されていません)
そういう難民が母体であると考えると、山東省から朝鮮半島西岸を南下した集団は
全員そろって日本にやってきたと考えるよりも
一部は朝鮮半島南岸一帯に残り、一部は九州に上陸した
と考える方が自然のように感じています。

であるならば、対馬海峡両岸で日常的に交流が行われていても不思議ではないですし
元々が中国からの難民であるならば「倭王」として中国に入貢するのも自然な流れです。


つまるところ、元々の「倭」とはヤマト王権のことではなくて
対馬海峡両岸の地域の人々が結束して作り上げた「クニ」であり
その具体的な名前の一つが「邪馬台国」なんじゃないかということです。

であるならば、239年に邪馬台国の卑弥呼を「親魏倭王」に封じて以降
積極的に朝鮮半島中部で活動していたとしても何ら不思議ではありません。

その後の動きとして、奈良に「ヤマト」という国が出来上がります。
すると日本列島では徐々にヤマトを中心とした連合体の動きが出てきました。
「倭」もその流れにのってヤマトの影響を受け入れたのではないでしょうか。
もっと言うと、既に本州に大きな勢力を持ったヤマトという国家を
乗っ取ったのではないかというのが僕の考えです。

この時期は5世紀前半だと考えています。
倭国が積極的に高句麗にちょっかいを出していた時期でもあります。

それはなぜか?5世紀前半は日本書紀によれば応神天皇、仁徳天皇といった天皇の治世です。
「ヤマト」というと奈良盆地に拠点があるように感じられますが
応神天皇から武烈天皇までは陵墓や宮殿が今の大阪府にある天皇が多く
その前後のヤマトを中心とした政権とは大きな違いがあるのです。

また、この時代の古墳は前方後円墳が大型化したと同時に
「馬」の埴輪が誕生してきた時代でもあります。
それまで日本には馬が居ませんでしたので
この時代に馬の輸入を初めとして何らか文化面での変容があったと考えられます。

その特性のためのこの時代を「イリ王朝」として
現代の皇室に繋がる後の王朝とは別系統の王朝だったのではないか
といった提唱が一部の歴史研究家から言われています。

というのも武烈天皇の次は「継体天皇」という名前も経歴も
どうにもこうにも、それまでの天皇とは繋がりのなさそうな天皇がでして
彼以降は万世一系が保障されているし、日本書紀の記述も正確となっていまして
学者の中では継体天皇以降は系譜が確認されているものとしています。
逆に居れば、それ以前の天皇は本当に今の天皇と関係があるのか
ずいぶんとあやしいっていうことですね。

ということで僕は、イリ王朝とは倭によるヤマトの乗っ取り政権じゃないかと考えたわけです。
元々が九州北部に拠点がって海上貿易を重視しているのであれば
内陸の奈良盆地ではなく瀬戸内海に面した難波の方が好まれると考えられます。

また、領域の半分が朝鮮半島なわけですから馬を初めとした
大陸の文化や風習が一気にヤマト王権の中心に流入してくるのも自然です。

こうして日本列島に広大な勢力圏を得たことで
日本からの支援を軸として朝鮮半島に住む「倭人」が
積極的に領土拡大に動いていったのが5世紀前半の日本と朝鮮半島の実情なのではないでしょうか。

この僕の仮説の傍証に「筑紫国磐井の乱」があげられます。
これは、イリ王朝を打倒して天皇位についた継体天皇に対する九州北部の反乱です。
日本書紀によれば新羅征伐に向かおうとした継体天皇に対して
新羅と結んだ磐井が反乱を起こしたとあるのですが、
百済=味方、新羅=敵というのは日本書紀の成立期の少し前
百済滅亡の直前の様相であって、磐井の乱のあった6世紀前半というのは
百済と新羅が協力して高句麗と対抗するという時期であり
551年に百済・新羅・任那の連合軍が高句麗からソウルを奪還する
という出来事までは高句麗を共通の敵としていました。

なので、磐井の乱の時期に継体天皇が新羅に遠征するというのは年代があいません。
新羅に遠征するのであれば、553年の同盟決裂以降となりますので
継体天皇の子どもの欽明天皇の治世ということになります。

一方で、継体天皇の治世の出来事の有無については
日本書紀の記述は比較的信用できるものですので
磐井の乱自体はあったものの、その経緯は異なっているという事だと考えられます。

ということで、先に僕が書いた継体天皇による皇位の簒奪に対して
簒奪された側の倭の勢力が起こしたのが磐井の乱だという考えも出来るわけです。

さらに不思議な事に磐井の乱があった後6世紀の中ごろから
任那における倭国の活動というのがどんどん縮小していき
現地には金官伽耶や大伽耶といった独立した勢力が出てきます。
これは磐井の乱の結果としてヤマトから離脱した朝鮮半島側の「倭」の勢力が
独立自治の道を選んだのではないでしょうか。


といった所がヤマト王権成立期において
なぜだか朝鮮半島でやたらと軍事活動していたよ
という僕の疑問を自分なりに考えた結果です。

ここら辺の考えは過去の自分の知識をベースに
Google先生とWikipedia先生に補足してもらいつつ書いたので
どっかに大間違いもあるかもしれませんが
そこらへんの突っ込みは大歓迎です。

2 件のコメント:

  1. こんにちは。circleoflifeです。私はこの記事に興味津々。もちろん難しいのですべてを理解はできません。
    最近は「邪馬台国畿内説」が有力なようで、私はやや不満気味。歴史好きさんの仮説に期待盛り上がり~~~(笑)。
    「イリ王朝」なる用語ははじめて知りました。「イリ」ってどういう意味なのでしょうか。

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  2. 「イリ王朝」は天皇の名前に「イリ」が付くことが多いことから名づけられました。「ミマキイリヒコイニエ」とかです。まあ、仮説の段階を超えてはいないんですけどね。

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