日本の決済の歴史を振り返る ~古代編



いつも愛用しているNewsPicksで「フィンテックの真贋」という楽しみな連載が始まりました。しかし、残念ながら初回の日本の決済の歴史のまとめは、かなりの説明不足があり、多くの人に誤解を与えかねないと感じています。そこで、自分へ整理も含めて改めて日本の決済の歴史を何回かに分けて振り返ってみたいと思います。まずは皇朝十二銭に代表される古代の話です。

開元通宝と硬貨

Wilipediaより引用
日本の通貨の歴史を振り返る上で欠かせないのが唐代の中国で鋳造された「開元通宝(開通元宝とも)」です。621年に鋳造が開始された開元通宝は、唐が滅亡したあとも後継の王朝によって鋳造が続けられ、次の統一王朝である宋によって新しい通貨が作られるまで、中国のみならず東アジア全域で広く流通した通貨となりました。
日本で最初に流通した通貨は「和同開珎」ですが、その直径は24mmというサイズや、3.73gという重さは開元通宝と全く同じ大きさ、重さとなっています。日本の和同開珎に限らず、この開元通宝1枚の重さが「1匁(もんめ)」でし。現在では3.75gとして定義されています。具体的に、どの程度の大きさだったのかを実感するには「5円玉」を手にとってもらうのが良いかと思います。5円玉は正に重さ3.75g、大きさ22mmであり、開元通宝に系譜を次ぐ硬貨となっています。


和同開珎と通貨の始まり

Wikipediaより引用
日本で最初に流通した通貨は「和同開珎」と考えられています。和同開珎の鋳造の開始は708年です。では、それ以前の日本では物々交換だったのでしょうか?実は、それ以前から「無文銀銭」と呼ばれる銀貨が流通していたことが分かっています。これは秤量貨幣と呼ばれて銀そのものの重さで価値が決まるものです。また、日本書紀には天武天皇の治世十二年(683年)に「夏四月戊午朔壬申、詔曰、自今以後必用銅錢、莫用銀錢。」と書いてあり、和同開珎の鋳造よりさかのぼること20年前には既に「以後は銅銭を使い、銀銭を使うな」との規制が出ているのです。また、あまり知られていませんが、和同開珎には銅銭と銀銭とがあり、銀銭のほうが先に作られていました。

このことから、和同開珎以前の日本において通貨というものが無かったのではなく、既に銀貨が流通していたこと、また銅銭の使用を指示している点からみて、開元通宝が一定数流通していたものと僕は考えています。つまり、和同開珎は日本で最初の通貨なのではなく、最初の「国産の計数通貨」だったのではないでしょうか。和同開珎の鋳造開始当初は朝廷も普及に努めたようで、それまで物納していた税を銅銭での納入を認めたり、和同開珎を貯蓄することで爵位を送ったりといった普及策を行っていたことが確認されます。

さて、この和同開珎に始まる日本の通貨発行の歴史ですが、これ以後も皇朝十二銭と呼ばれる和同開珎を含めた12種類の銅銭は鋳造されますが、その後一旦中断します。再び日本国内で銅銭が鋳造されるのは江戸時代に入ってからでした。この状況について「日本はまだ経済が発展していなかった」と教科書で習った人も多いのではないでしょうか。しかし、果たして本当にそうでしょうか?

これ以後は僕個人の見解が多く含まれている上、きちんと論文などで裏取りをしたものではなく、僕の記憶と手元資料をベースに構築しているだけのものですが、説明を続けていきたいと思います。

ちなみに「和同開珎」といえば、秩父で日本最初の銅鉱山が見つかり、年号も和銅になった、という事を記憶しているかたも多いかもしれません。しかし、国立歴史民俗博物館のサイトによる和同開珎の原料となった銅の産地は山口県だった模様です。

皇朝十二銭の発行

Wikipediaより引用
和同開珎に始まる皇朝十二銭はいつまで発行されたのでしょうか?最後の貨幣である乾元大宝の鋳造が中断したのは963年といわれています。実に250年以上にわたって銅銭の鋳造は行われてきたのです。これだけの間、鋳造・流通が続いたものが中断したことが、本当に「流通経済が未発達だから」だったのでしょうか。この説が有力視された背景には、人類の文明は過去から未来に向けて一直線で発展するという進歩主義的な思想の影響があったように考えます。しかし、僕はその説には疑問を持っています。そこで少し詳しく見ていきます。

708年に鋳造が始まった和同開珎は760年に万年通宝に切り替わります。しかし、この切り替えのタイミングで、なんと朝廷は和同開珎10:万年通宝1という交換比率を設定しました。通貨としての外見は全く一緒で刻印されている文字が違うだけで価値が10倍違うのです。これによって市場は相当混乱したことが推測されます。なぜなら和同開珎を溶かして、万年通宝の型に入れるだけで価値が10倍になるのです。みんなに偽造されたのではないでしょうか。

というわけで不評な万年通宝は5年で役目を負え、765年には新しく神功開宝が発行されます。前回の反省を踏まえて万年通宝と神功開宝は1:1の価値があるとされました。そして、779年には和同開珎の価値も同じとなりました。これで全ての1文銭は同じ価値があることになりました。

ここれでやめていればよかったものの、796年に発行された隆平永宝では再び旧貨幣と新貨幣とで10:1の交換比率となりました。さらに818年の富寿神宝をはさんで、835年の承和昌宝では三度旧通貨と新通貨の交換比率が10:1となりました。こうなるともう止められません。848年の長年大宝も旧通貨の10倍、859年の饒益神宝も旧通貨の10倍、870年の貞観永宝でまた10倍、これ以後は書くに及ばず、ということで新しい通貨が発行されるたびに旧通貨が10分の1の価値になることが繰り返されました。

果たして、こんな通貨が「信用」に値するのでしょうか?重さが価値となる秤量貨幣と異なり、発行機関によって価値が定められる計数貨幣は「信用」こそ重要と考えています。しかしながら、新貨幣が発行されるたびに、旧貨幣の価値が10分の1に希釈するような貨幣は信頼に足るものではなかったのではないかと考えます。つまり、皇朝十二銭の鋳造がとまったのは、決して経済発達の未熟だったからではなく、無茶苦茶な通貨発行政策によるものだったと考えています。


黄巣の乱と青銅不足

Wikipediaより引用
ではなぜ、朝廷は無茶苦茶な通貨発行を行ったのでしょうか。そこを少し詳しく考えていきます。普通に考えて新しい通貨を発行するたびに価値を10倍にするのは理屈にあいません。となれば、新しい通貨の価値は一定だが、時間の経過とともに旧貨幣の価値が10分の1までインフレしてしまっている、と考えるほうが自然です。つまり、無鉄砲に10倍にしているわけではなく、物価をあるべく水準に戻すべく、新たな通貨を発行して価値を維持しようとしていたと考えています。

すると今度は価値下落の理由が気になります。そこには計数貨幣でありつつも、実際には青銅の重さに価値が引きずられる秤量貨幣の側面があったからではないかと推測しています。というもの、本来は青銅で作られるはずの銅銭が時代を下るごとに鉛の成分が増えていることがわかっているからです。青銅の含有量が減り、安い鉛が増えると、秤量貨幣として見た場合には自然に価値が下落します。

青銅の含有量が減っていった背景を知るために、当時の貨幣の流通状況を考えて見たいと思います。最初に説明したとおり、当時の国際通貨は開元通宝です。日本国内でも多くの開元通宝が見つかっています。この中には会昌開元と呼ばれる種類の開元通宝が混じっています。これは840年代の時代に鋳造されたもので、この時期は仏教に対する弾圧が行われており、多くの仏像や仏具が没収されて銅銭へと姿を変えていました。予断ですが、この弾圧は仏教のみならず、外国由来の宗教全般に対して行われ、キリスト教やゾロアスター教、マニ教なども弾圧の対象でした。この会昌開元が日本国内でも流通していたということは、既に和同開珎の鋳造開始から150年が経過している時期でもあることか考えて、当時の日本では1文銭として和同開珎も開元通宝も同じように利用されていたのではないでしょうか。つまり、国内で銅銭の鋳造が始まったからといって、開元通宝が利用されなくなったのではなく、両者は共存していたのではないかと考えています。

ただ、一方で銅銭の不足は唐で深刻な問題となっていました。銅銭が不足していたからこそ、仏像などを溶かして銅銭を作っていたともいえます。つまり、日本で流通させる銅銭の輸入元である唐でも銅銭が不足していたことで、国内での銅銭鋳造を増やさざるを得なくなり、数量を確保するために品質を下げたのではないか、というのが僕の考えるところです。

そこで、皇朝十二銭と唐の歴史を紐付けて見ていきます。最初に価値を10倍にした万年通宝が発行されたのが760年ですが、5年前の755年には中国では安史の乱が発生して中国全土が混乱にありました。そのため、遣唐使船の往来にも支障が出ていました。その後の唐は衰退の方向へとすすみます。それに歩調を合わせるかのように日本の銅銭も品質を悪化させていきます。

そして907年に唐が滅亡すると、およそ70年後の979年に宋が再統一を果たすまでの間、中国は戦乱の時代となっていました。そして、唐滅亡後に作られた最後の皇朝十二銭である乾元大宝は品質の劣化もはなはだしく、完全に市場の信用を失ってしまいました。

そうして、銅銭が不足するようになった日本では「銅本位制」が崩壊しました。代わりに基軸通貨となったのは米や絹でした。こちらは国内で安定した生産が行われており、供給不足による市場の混乱の心配が無かったからです。日本に再び貨幣が広まるのは、これより200年後の12世紀、平清盛などの時代になってからです。ですので、次回は平安末期に銅銭が再度普及した経緯について見ていきたいと思います。




0 件のコメント:

コメントを投稿