サラリーマンのための歴史 外様と維新

前回の記事が比較的好評だったので、今回はファンも多い幕末の流れを中心に『外様大名』とは何かについてビジネス用語を使って説明したいと思います。前回もそうでしたが、あくまで歴史の流れを知ってもらうために、現代のビジネスに置き換えた表現をしていますので、細部については必ずしも正確ではない点をご了承ください。




さて、時は江戸時代。徳川商事の社長である徳川家定さんは親会社である日本ホールディングスの代表取締役も兼任し、グループ全体の経営を見ていました。この日本ホールディングスですが、HD本体にも従業員が居なくもないのですが、みな和歌や蹴鞠、書道には長けていたものの経営を担える人材は全く居ませんでした。そこで、徳川商事の執行役員である「老中」たちがHD全体の経営の実務を行っていました。

さて、ここで外様大名の島津建設の島津斉彬さんを見てますと、彼は日本HDの取締役の一員でもありますが徳川商事の従業員ではありません。島津建設は日本HDの中では徳川商事に次ぐ大企業でありましたが、その経営規模は数倍の差がありました。島津斉彬は前々から日本HDの経営に携わりたいと考えてはいましたが、島津建設を徳川商事の子会社化してまで徳川商事の役員になるつもりはありませんでした。

これが外様大名が幕府の経営に参画できなかった理由です。どれだけ外様大名に力があっても老中は徳川家の家臣である以上、大名が老中になるというのは徳川家の被官になるということであり、それは栄転ではありませんでした。

ちなみに譜代大名というのは、この逆であくまで徳川商事の従業員であり、それが出世して徳川商事の子会社社長を任されたようなものです。たとえば、三河豊橋にあった吉田藩の場合、歴代藩主は竹谷松平家、深溝松平家、水野家、別の水野家、小笠原家、久世家、牧野家、大河内松平家と何度も藩主が変わっています。これは子会社社長が任期ごとに入れ替わるような感じですね。かれらはあくまで幕臣であることが主であったわけです。

さて、この日本HDと徳川商事に風雲急が訪れます。アメリカのペリーコーポレーションとの業務提携の話がやってきたのです。徳川商事の経営陣は、経営難が続いていた日本HDの経営再建にはペリーコーポレーションとの提携は必要不可欠と非常に乗り気でいましたが、株主や日本HDグループの主要各社はこぞって大反対でした。反対の急先鋒は徳川商事の創業者一族である水戸興行の徳川斉昭でした。

そんな渦中の徳川商事に後継者問題が噴出します。社長の徳川家定は病に倒れたのです。候補者は従兄弟の徳川家茂と、徳川斉昭の息子の一橋慶喜です。徳川商事の役員はペリーコーポレーションとの提携に乗り気ですから、反対派の徳川斉昭の息子が社長に就任したらどうなるか分かりません。そこで、徳川家茂を次期社長にするよう徳川家定を説得するとともに、実力派の井伊直弼経営企画部長に代表権のある専務代表取締役として登用し、徳川斉昭ら提携反対派を黙らせることにしました。

しかし、そんな徳川商事にも弱みがありました。ペリーコーポレーションとの業務提携は徳川商事単体ではなく、日本HDとの提携でした。そのため、株主総会での承認が必要だったのです。筆頭株主の孝明天皇もまた提携に反対だったのです。そこで徳川商事の執行役員たちは株主総会に諮問せずに勝手にペリーコーポレーションとの提携の契約に調印してしまいました。

これに怒ったのは反対派の徳川斉昭です。提携の取り消しのため、孝明天皇に働きかけて緊急の株主公開の開催を求めました。この動きに対して、井伊専務は強硬な態度に出ます。企業のガバナンスを無視した行動に出た徳川斉昭をはじめ、松平春嶽、山内容堂ら徳川商事の主要子会社の社長たちを次々に更迭しました。さらには若手社員の吉田松陰、橋本佐内らを懲戒免職としたのです。

この井伊専務、実はペリーコーポレーションとの提携には反対でした。しかしながら、提携しなければ企業経営が成り立たないことも知っていました。そのウヤムヤをぶつけるためか、反対派のみならず、勝手に業務提携に調印した執行部の堀田正睦、松平忠固らも次々に更迭していきました。そんな事をしていては当然、井伊専務もリストラ社員の逆恨みによって刺殺されてしまいます。こうして、徳川商事の経営幹部は一新され、当然のことながら企業経営はさらに厳しいものとなりました。

そんな徳川商事のゴタゴタを遠めに喜んで見て喜んでいたのが島津建設で島津斉彬の後を次いだ島津久光です。彼らは徳川商事の後継者争いに敗れた一橋慶喜と組んで、日本HDの経営権を徳川商事から取り戻し、主要各社による合議制のグループ経営にシフトしようとたくらみます。島津久光が株主からの委任状によって臨時株主総会を開催し、一橋慶喜と福井運輸の松平春嶽を徳川商事の相談役として任命させ、社長決裁には必ず相談役への意見照会が必要とされました。

ところが、この手の動きというのは、権力を握った後には必ず内部での権力闘争が始まります。早速、一橋慶喜と島津久光が対立するようになります。そこで一橋慶喜は孝明天皇に働きかけ、徳川商事の相談役を辞任して、日本HDの経営企画部長に就任することとしました。ここに、これまでHD全体の経営を徳川商事が担っていた構造から、日本HDが自分たちでグループ全体の経営を管理するように構造が変化したのです。実力のある社員が悉く辞めてしまった徳川商事には、もはやこの流れを抑えることが出来ませんでした。その流れを決定付けたのが、徳川家の一橋慶喜というのは皮肉です。

一橋慶喜は同じく徳川家出身の財務部長松平容保、総務部長松平定敬と組んで日本HDの経営権を手中に収めます。そうして日本HDのプロパー社員中心で経営再建を図ろうと考えたのですが、それは当然ながら主要各社の合議制によるグループ経営を求める、島津建設や福井運輸とは衝突することになりました。

そんな折、全く予期せぬ事態が起きました。徳川商事の社長徳川家茂が急逝したのです。これで事態は急展開します。今まで徳川商事の弱体化を考えていた一橋慶喜が徳川商事の社長として就任することになったのです。島津建設にとっては好機到来です。徳川商事も一橋慶喜もまとまってくれたおかげで、二方面作成を採る必要がなくなったのです。一橋慶喜も自分の状況を良く分かっていました。そこで、就任と同時に日本HDの代表取締役を辞任し、平取締役となったのです。しかし、勢いにのる島津建設は、その程度では赦しません。ここぞとばかりに徳川商事の解体を狙います。

おりしも、株主側でも筆頭株主が孝明天皇から、若い明治天皇に代替わりがありました。孝明天皇は一橋慶喜との関係性が強かったのですが、新しい天皇は島津建設の関係者が周囲を取り囲んでいました。臨時の株主総会を開くと、徳川商事の精算を決定したのです。もちろん一橋慶喜は抵抗しましたが、部下たちは言うことを聞きません。次々に島津建設に寝返っていったのでした。対子の間まで政敵だった一橋慶喜がいきなり社長になった状況では部下たちは社長へのロイヤリティはかけらもありませんでした。

そんなこんなであっという間に徳川商事は解体されてしまいました。最後まで抵抗したのは一橋慶喜の盟友だった会津の松平容保や、その部下であった土方歳三たちでした。逆に、元々幕臣であった人たちは、大久保一翁(東京都知事)、渋沢栄一(第一国立銀行頭取)、勝海舟(海軍大臣)、山岡鉄舟(明治天皇侍従)、福沢諭吉(慶応大学創設)、榎本武揚(いろんな大臣歴任)など、明治の新政府で栄転を遂げた人たちが沢山いたりします。

ということで、幕末を企業の内部紛争に見立てて書いて見ましたが、こうしてみると坂本竜馬とか奇兵隊とか新撰組とか全然出てきませんね。日本人の歴史観は小説によって作られるので、どうしても小説の主人公視点になってしまいがちですので、組織として見て見るというのは新しい発見が得られると思います。

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