サラリーマンのための歴史 頼朝と義経

前々から、日本のビジネスマンは歴史小説や時代劇の影響が強すぎて、歴史について極めてバイアスのかかったイメージを持っていたり根拠のない俗説を信じていたりということを危惧していて、ビジネスマン向けに歴史をビジネスの用語・概念を用いて説明してみたいと考えていました。
ちょっと時間が出来たので、まずは頼朝と義経の関係から鎌倉幕府の性質を説明したいと思います。





まず、皆さんご存知と思いますが、源頼朝といえば鎌倉幕府の創設者であり、その弟の源義経は戦争の天才と呼ばれる武将でした。義経は頼朝の命によって壇ノ浦で平家を滅ぼしますが、その後、頼朝に追われ奥州平泉で無念の死を遂げます。(その後、モンゴルにわたってチンギス・ハンになったなんて説も・・・)

さて今回説明したいのは、なぜ頼朝は義経を討ったのかというところです。この理由について明快に説明できる人は余り多くないのでしょうはないでしょうか?このポイントを現代のコンビニ業界に当てはめて説明したいと思います。

当時の業界最大手は平安堂という関西を中心としたコンビニチェーンです。関西から西日本にかけては地域子会社を作り、そこが直営店でコンビニ店舗を運営していました。筆頭株主は後白河法皇、代表取締役は孫の安徳天皇ですが、実際に会社を切り盛りしていたのは安徳天皇の外祖父であった専務平清盛です。平清盛は各地の地域子会社のトップに自分の息子たちを就任させて、権力を確保していました。

さて、かつては日本全国に直営店をもっていた平安堂ですが、放漫経営がたたって、特に東日本では新興のライバル企業が出てきます。一つは岩手県を本拠とするヒライズミマートです。ヒライズミマートは平安堂の店舗を東北一体から追い出すほどの力を持っていましたが、平安堂との全面対決を避けて、平安堂に顧問料を支払い、東北から出ないことをバーターとして経営を安定化させていました。

鎌倉を本拠地とするゲンジ屋も、そんな新興企業の一つです。その創業社長が源頼朝です。当時の関東には中小の地場の小売店が乱立している状況でした。互いが商圏をめぐって相争ってはいたものの、経営基盤は不安定であり平安堂が本気で進出してきたら、すぐに吹き飛んでしまいます。そんな中小企業の社長たち、三浦義澄、和田義盛、上総広常、千葉常胤、土肥実平たちは若い源頼朝のカリスマ性に期待して一致団結して、新しい会社を立ち上げたのです。

他にも長野には木曽義仲の木曽ストア、大阪には源頼政のナニワ本舗など各地に新興のコンビに事業者が乱立してきました。

この事態を平安堂の筆頭株主である後白河法皇は平安堂の経営権を取り戻すチャンスと考えました。実力者の平清盛が死去したのと契機に臨時の株主総会を開催して安徳天皇を含めた経営陣を全て追放してしまいました。しかし、経営に長けた平氏が居なくなっては平安堂の経営が成り立たなくなります。そこで後白河法皇は各地の中小コンビニチェーンとフランチャイズ契約を結び、直営店無しに事業が成り立つよう事業のポートフォリオを変えてしまいました。

本社で政変があったことを受けても西日本各地の子会社は引き続き平氏による経営を求め、MBOによって自社株を買い取って、平安堂から独立していきました。

さて、ここで登場するのが源義経です。後白河法皇は平氏の息の根を止めるべく、西日本へ再度平安堂の店舗を展開しようとしますが、手元のには経営に長けた部下がいません。そこで、源頼朝に支援を求めます。その要請に応じて派遣されたのが天才事業家の源義経です。源義経は瞬く間に西日本の平氏の店舗を閉店に追い込んでいきました。

ところが、源義経は事業については得意であっても企業経営は良く分かっていませんでした。利益を出せばよい、コンプライアンスでは食っていけないというタイプの人です。一方で、後白河法皇は長く業界最大手の舵を取っていただけに、よりしたたかです。この義経が鎌倉にいては、いずれ平安堂にとって強大なライバルになると懸念しました。そこで、平氏を滅ぼした功績に報いるとして源義経を平安堂の新規事業担当の役員として抜擢したのです。

ここで驚いたのが源頼朝です。事業支援に派遣した弟がなぜかパートナーに役員にヘッドハントされてしまったのです。これを見逃しては、他の役員たちも自分たちの店舗を土産に平安堂に移籍してしまうかもしれません。企業存続のピンチでした。こうなっては頼朝は義経を許すことはできません。即刻、懲戒解雇した上に損害賠償の訴訟を起こしたのでした。

さらに頼朝がしたたかだったのは、この危機を逆手にとって平安堂から業務委託経営を請け負ったことです。義経が居なくなっては店舗運営ができる人材が居ない平安堂。そこで、頼朝は各地の平安堂の店舗の運営を受託し、そこに自社の従業員(=御家人)を派遣したのでした。

さて、こうやって見ると、頼朝にとって「源平の争い」というのは重要な経営課題ではないということがわかります。新興企業であった鎌倉にとって、西日本まで行って親の敵を討つというのは非常にリスクの高い事業です。それよりもまず、地場での経営基盤の構築が最優先だったわけです。

また、平氏と源氏の権力基盤の違いも顕著です。平氏はあくまで平安堂という大手企業の中で権勢をふるった派閥に過ぎず、その部下たちは平安堂の社員であり、人事権は筆頭株主である後白河法皇に握られてしました。一方で、源頼朝は小さいながらも独立した企業であり、その従業員は頼朝と雇用契約を結んでいたのです。この違いが最終的に源氏と平氏が対照的な結末を迎えた要因であったのではないでしょうか。

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