夫婦別姓に関して思うこと

いつも愛用しているNewsPicksでハフィントンポストの「夫婦別姓問題」に関する記事のPickがあり、結構なコメントがついていました。僕は「夫婦別姓」については論じるまでもなく賛成ですが、「夫婦で異なる名字」については反対です。それよりも「氏名」以外の名前の持ち方を認めるべきというとこが僕の考えの骨子です。



そもそも、夫婦別姓の「姓」とは何でしょうか?実は現代の日本には存在しません。現代では中国や韓国で使われているもので、江戸時代までの日本の「氏」に当たるものです。これは血縁集団をあらわします。原則として、自分の血縁のルーツを示すわけですから結婚しても変わりません。そのため、結婚しても「嫁は別姓」であり、嫁ぎ先の一族のメンバーとして認められないという女性差別へと繋がることが多々あります。これは「韓国 嫁」みたいなので検索してもらえれば嫌韓の人たちが一生懸命に事例を集めていますので、すぐに見つかります。

つまり、「夫婦別姓」の議論の土台には「世界中の人たちが同じネーミングルールで名前がついている」という大きな誤解があるのです。日本では「家の名前」であり、中韓では「血縁集団の名前」です。一方で、世界全体と見回したときに地理的に大きく普及しているのは「血縁集団の名前」の他、「父親の名前」あるいは「職能集団の名前」であったりします。「家の名前」である日本の方式は極めて珍しいものです。

名字にあたる部分が父親の名前であるというのは世界中で広く見られます。イギリス人のグレン・ジョンソンは「Joshnの息子」ですし、スウェーデン人のスヴェン・ゴラン・エリクソンは「Ericの息子」、シニシャ・ミハイロビッチは「Mihajl」の息子です。といはいえ、西欧では早い段階で「父親の名前」を血縁集団の名前とする風習が広まっており、名字として固定化していました。この父親の名前の名字に利用するのは中央アジアや中東では今でも一般的です。白鵬のモンゴルでの名前はムンフバト・ダヴァジャルガルですが、彼の父親はジグジドゥ・ムンフバトであり、白鵬の名字にあたる「ムンフバト」は彼の父親の名前であることが分かります。サダム・フセインのフセインも彼の父親の名前で、サダム・フセインの息子はウダイ・サダム・フセインという名前でした。ただし中東ではネーミングに幅がないためか知りませんが、名門の人たちなどは父親の名前の後ろに血縁集団名を付けています。フセインの場合は「ティクリーティ(ティクリート氏族)」ですね。これらの名前の場合、「父親の名前」ですから、夫婦で異なる名字であるというのもおかしくはないですね。

もう一つが職能集団の名前です。これはインドで顕著です。インドでは名字を見れば、その人のカーストが分かるといわれています。欧米でもスミス(鍛冶屋)、シューマッハー(靴屋)なんかがそうですし、日本でも古くは「物部」や「刑部」など職能集団による氏族名が付けられていました。こちらについても血縁集団と同じで、自らの出身集団による名づけですので夫婦で名字が異なることも不思議ではないかと思います。

これら日本文化と関連した政策については、世界的にみて少数派である日本文化圏という文化の多様性保護という観点と、逆に世界の主流派に迎合するという統一性の観点の両方が求められてくると考えています。(ちなみに個人的にキリスト教、イスラム教、中華、インドを四大文化圏としています)。

日本文化の保護という視点から、現在の「家の名前」を名字として用いた場合の世帯全員が同じ名字という原則は変えるべきではないと考えています。一方で、今後日本が移民を促進するのであれば、早晩この名前に関する問題が顕在化してくると予想されます。劉さんや趙さんが結婚後も旧姓を利用したいというのは、彼らの伝統的価値観として尊重されるべき考えだと思います。そこで日本の戸籍制度について、現在の「家名」による氏名のほかにも、血縁集団や職能集団、あるいは父親の名前といった、もっと多様な名字のあり方を認めておくことが大切であると考えています。そして、その中で夫婦別姓を希望する人は自分の名字を「家名」ではなく「血縁集団名」として登録するようにしてはどうでしょうか。

ITエンジニア向けに話をまとめると、FamilyNameクラスを変えるのではなく、ISurnameというインターフェイスを新たに定義し、戸籍への登録はISurname型として、その実装クラスとしてFamilyNameクラスのほかにFathersNameやRootsNameといったクラスを登録可能とするほうが、拡張性や保守性に優れた制度であると考えているということです。


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