百人一首93 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の つなでかなしも

百人一首(Wikipediaより)
花の金曜ですね。今回は少しかなしげな鎌倉右大臣の一首です。鎌倉右大臣って有名なあの人のことなのですが、みなさまご存知でしょうか?
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の つなでかなしも
鎌倉右大臣



内容
この歌は極めて現代的だと思っています。慌ただしい毎日に疲れたシャパニーズサラリーマンが、ふと今日は仕事をサボろうと思って下りの横須賀線に乗って鎌倉まで。由比ヶ浜でボーッと海を眺めてたら、平日だというのにサーファーが楽しそうに波乗りをしてるのが目に入った。「毎日慌ただしいけど、もっと穏やかに過ごせないものか。漁師が昔から変わらず魚を取るために舟から網を投げ入れてるのを見て悲しくなってきた」っていう心疲れた男の歌です。

鎌倉右大臣
さて、この鎌倉右大臣とは誰でしょうか?ヒントは鎌倉という地名ですね。百人一首というと平安貴族のイメージがありますが、この人は武士です。実は鎌倉幕府三代将軍源実朝のことです。名前が全然違うので気づきにくいですね。
源実朝は1192年に頼朝の子として生まれます。そう、生まれながらにして将軍だったわけですね。彼の短い生涯を歴史上のイベントでおっていくと以下のようになります。
1歳:父頼朝、叔父範頼を殺害
7歳:父頼朝死去
11歳:兄頼家、叔父全成を殺害
12歳:母政子、兄頼家を殺害、三代将軍就任
13歳:叔父義時、祖父時政を幽閉
21歳:甥千寿丸謀反。翌年、殺害 
25歳:中国へ行こうと思い立つも失敗
27歳:養子の公暁(頼家実子)に暗殺される

とまぁ、身内に関する事件だけで、ドロドロです。これの他に和田合戦のように御家人の争いもあったので、そりゃ心も疲れてきますね。すべてを捨てて中国で新しい人生を歩みたかったのかもしれません。

諱(いみな)と名乗り
さて、なぜ源実朝が鎌倉右大臣なのでしょうか?これ昔から東洋に伝わる諱という習慣が関係しています。その人の本名というのは霊的なものなので軽々しく呼んではいけないという考え方に由来します。今でも、ビジネス上の会話で相手のファーストネームを呼ぶのはTPOにそぐわないって感じる人が多いのではないでしょうか?
そこで変わりに通称が用いられるようになりました。官位についている人は役職名が、出家した人は僧侶名が通称として使われました。たとえば信玄、謙信なとは僧侶名です。吉良上野介、大石内蔵助なんかが役職名です。今でも役職者は部長とか社長って呼ぶのはその名残じゃないかと思ってます。
源実朝は右大臣だったわけです。あれ?征夷大将軍じゃなの?って思う人もいるかもしれませんが、征夷大将軍より右大臣の方が地位が高いので、こちらを名乗っているわけです。現代で考えると征夷大将軍はあくまで戦戦時をおける現場の最高司令官にすぎず、文民統制からすれば閣僚の方が上ですよね。征夷大将軍の方が文官より上になったのは江戸時代に入ってからです。
変わった所では日本の役職を中国の相当する役職名で通称にすることもありました。一番有名なのは水戸黄門ですね。黄門の正式名称は黄門侍郎と言い、政策の審議を行う門下省の副長官で現在でいうところの内閣官房副長官のようなポストでした。日本の律令体制では中納言にあたることから、中納言職にあった徳川光圀が「黄門様」とよばれるようになりました。当時の先進国である中国っぽく表現することで格好をつけたかったのかもしれません。今で言えば、役職を英語にして「今日からオレはプレジデントだ!社長とは呼ぶな」みたいな感じでしょうか。
というわけで、時代劇などで「信長様~」なんてセリフがあったりますが、これは当時の感覚では失礼はなはだしいので、通常は使われていなかったと思います。ただ、名乗りは同じ人物でも時期とともに変化するので、統一しておかないと現代人にはわかりにくいので仕方ないですね。たとえば、「三郎次郎」→「三河守」→「大納言」→「左大将」→「内府」→「将軍」→「大御所」といえば徳がわい家康ですが、テレビドラマで毎週呼び名がわかってたら、視聴者が混乱しちゃいますね。

氏と名字
名前にまつわることでもう一つ。「鎌倉」を見てみましょう。たとえば、「羽柴筑前守」といえば名字+名乗りになっていますが、「鎌倉」は地名であって名字は「源」ですよね。実は源とか平とか藤原などは氏と言います。これらは血縁関係を表したものであり、天皇から与えられたモノでもありました。なので幕末までは正式な行政文書では氏を利用してました。徳川家康の場合、源家康ですね。豊臣秀吉の豊臣は天皇から与えられたら氏なので、これが正式なものです。
これは僕の推測ですが、平安時代中頃から上流貴族の殆どが藤原氏になってしまいました。同じように武士の殆どは源氏か平氏です。そこで、一族の中を分けて家族単位に家名を付けるようになったんじゃないでしょうか。今の名字の誕生です。
貴族などは屋敷の場所で、武士は領地の場所が家名となりました。例えば平清盛の息子平重盛は小松に御殿を構えたので小松殿と呼ばれました。鎌倉将軍は鎌倉に屋敷を構えていたので、「鎌倉」が家名になりました。住んでいる場所で呼ぶので「鎌倉殿」になり、そこからお殿様といえ言葉が生まれました。子供が成人して分家するたびに家名が増えたので、日本人は世界にも珍しい名字の種類を持つようになりました。今でも、親戚を呼ぶときに「大阪のおじさん」と地名で呼びませんか?

氏と姓
ちょっとオマケの話です。日本では元々は血縁集団をあらわす氏が家名をあらわす名字に変わりました。では、女性の名字はどうだったでしょうか?小野小町は小野氏の出身、清少納言は清原氏の出身です。鎌倉時代の北条政子は北条時政の娘ですし、室町時代の足利義政の妻は日野富子です。室町時代までは夫婦で名字が異なりました。嫁は家族の一員じゃなかったんですね。それが戦国時代の混乱を経て、女性も実家ではなく婚家の名字を名乗るようになりました。
一方で中国や韓国では姓と呼ばれる日本の氏にあたる血縁集団をあらわすものを使っています。だから夫婦別姓なのが当然ですね。韓国では未だに嫁は家族の一員ではないなんて差別もあるらしいですが、本当なんでしょうかね。
戦国時代を経て、家族の一員として同じ名字を名乗るようになった日本の女性が今また夫婦別姓(日本で姓は無いので、この用語は不適切ですが)を選択しようとしてるのは面白い流れですね。僕は個人的には家族全員は同じ家名を名乗る社会こそ日本的だと思うので、かつて同じように入籍したときに夫婦で新しい名字を決められるっていう解決策を提案したいと考えてます。

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