百人一首57 めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

百人一首(Wikipediaより)
ここ数日、藤原道長と敵対する人たちの歌を取り上げてきました。そうすると、なんだか道長が悪者のように見えてきてしまうので、これからしばらくは道長の娘中宮彰子に仕えた女性たちの歌を取り上げていこうと思います。まずは。かの有名な紫式部の歌です。
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな
紫式部



内容
この歌は月をテーマにした歌ではなく、昔の友人にちょっと出会ったけど、深く会話することもなく別れたときのことをテーマにした歌らしいです。「夜半の月」とは、親しいけど距離的には遠く、日ごろ会えない友人のことをたとえた表現だということです。
僕は、この歌をもう少しロマンティックに見ています。紫式部の結婚相手は親子ほども年の離れたダンディなおじ様でした。しかしながら、年の差のつらいところですが、僅か3年の新婚生活で夫と死別することになります。まだ幼い乳飲み子の娘を抱えて生活のために大変な苦労をしなければなりませんでした。紫式部の実家は没落貴族で実家の稼ぎは期待できません。それまで専業主婦だった大企業幹部の奥様が一転してパートにでなくてはならなくなりませんでした。
勤め先は中宮彰子の御所。華々しい貴族の世界ではあるものの、自分のポジションはあくまで使用人です。それまで奥様ライフを送ってきた紫式部にとって「労働」そのものが苦痛だったようです。彼女の残した『紫式部日記』はところどころ、働かなければならない自分の身の上を不満に思っているような表現が出てきます。
今日も一日必死に働いて、疲れきって家路に帰る牛車の中から、ふと通りを眺めていると、月明かりに照らされた路の一角に亡き夫が居るように見えた。驚いて身を乗り出したところで、ふいに月が雲に隠れてしまい、その人影もわからなくなってしまった。自分の苦しい境遇にあらためて心を痛めた、なんてシーンを想像してしまいます。

紫式部と清少納言
この時代の著名人といえば、紫式部と清少納言ですね。現代では、随筆の『枕草子』よりも物語の『源氏物語』の方が多くの人に愛されているように感じますが、当時はどうも枕草子のほうが評価が高かったようです。そこで、そんな2人を少し比較してみようと思います。
2人が使えたのは共に一条天皇の皇后です。清少納言が仕えたのが儀同三司母の娘で、荒三位の叔母である中宮定子。対する紫式部は御堂関白藤原道長の娘中宮彰子です。2人が仕えた皇后はどちらが一条天皇の皇子の母となるかライバル関係にありました。というと、火花散った対決を期待するのですが、若い中宮彰子が入内したのは西暦999年、中宮定子は西暦1001年に亡くなっていますから皇后が両立したのはわずか2年です。しかも紫式部が彰子に仕え始めたのは西暦1005年の頃ですから、紫式部と清少納言が宮廷でぶつかり合うことはありませんでした。
しかし、2人の出自は驚くほど似ています。紫式部の父藤原為時も清少納言の父清原元輔も中流貴族でした。2人とも子供のころに父親が国司として地方勤務するのに付き従い、数年間を父親の赴任先で過ごしました。そのため、2人とも京都に強い憧れがあったといわれています。
また、共に学問・詩歌に優れた家系です。紫式部の曽祖父には百人一首にも名を残す藤原定方(三条右大臣)、藤原兼輔(堤中納言)ですし、娘の大弐三位も優れた歌人として百人一首に登場します。清少納言の方も曽祖父清原深養父、父清原元輔と著名な歌人をルーツにもっています。

また、共に漢籍に教養があるのも特徴です。清少納言は百人一首の歌にもあるとおり漢籍に非常に精通していることが見て取れます。一方で紫式部も源氏物語に多くの漢詩が出てくるらしく(僕はまだ読んでません)、それを読んだ一条天皇が紫式部に漢籍の講義をしてほしいと冗談を言ったと紫式部本人が日記に残しています。なお、一条天皇は漢籍の愛好家として著名でした。ですので両中宮とも一条天皇に足しげく通ってもらえるように、女中に漢籍に通じた人間を集めたのかもしれませんね。


女性の時代
一条天皇前後の摂関政治全盛期はまた、女性作家が大活躍した時代でもありました。紫式部と清少納言が著名なのは言うまでもなく、他にも以下のような女性たちが作品を残しています。

『蜻蛉日記』 藤原道綱母: 関白藤原兼家の妻。息子の道綱は道長の兄
『和泉式部日記』 和泉式部: 中宮彰子の女中。
『栄華物語』 赤染衛門: 中宮彰子の女中。栄華物語は物語調に書かれた歴史書。
『更級日記』 藤原孝標娘: 藤原道綱母の姪。

さらには私家集といって、個人の歌集を出している女性については数知れません。諸外国において、これほどまでに女性による宮廷文学が花開いた時代というのは本当に珍しいのではないでしょうか?それだけ平安時代の日本が平和だったのかもしれません。

0 件のコメント:

コメントを投稿