百人一首77 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ

百人一首(Wikipediaより)

連休もあと一日、明日は後悔無く過ごしたい第四弾です。今回も天皇の一首をチョイスしました。崇徳院、「祟る」なんて字が入っている天皇はちょっと気になりませんか?
瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に あはむとぞ思ふ
崇徳院


内容
この歌の内容は「急流に流れている水は岩にぶつかって左右に分かれたとしても、いずれ再び行流する。私とあなとも今は別れているが、いつかまた逢える日を信じている」という恋の歌だといわれています。正直、僕はこの歌を恋の歌としてみると、百人一首に取り上げるような傑作だとは思えません。特に誰か具体的な相手がいるわけでもない、非常に抽象的で安易な表現のように思えてしまいます。しかし、これを恋の歌ではなく、政治の歌と捉えると非常に興味深い一首に思えてくるのです。

叔父子
崇徳天皇は鳥羽天皇の第一皇子としてうまれ、わずか4歳で鳥羽天皇から譲位されて即位します。しかし、この当時の宮廷のトップは院政を行っていた白河上皇でした。白河上皇は鳥羽上皇の祖父(つまり崇徳天皇の曽祖父)にあたります。実は崇徳天皇の生母は元々は白河上皇の愛人だった人物でした。そのため、鳥羽天皇は崇徳天皇を自分の子供ではなく、祖父の子供つまり自分の叔父だと思っていました。もしかしすると、わずか4歳の崇徳天皇に譲位したのも白河上皇の意向があったかもしれません。
たった4歳で即位した崇徳天皇でしたが、白河上皇が薨去すると事態は大きく変わります。白河上皇のあとを次いで院政を開始したのは鳥羽上皇でした。このように上皇の中で、天皇家の家長として院政を行う人のことを「治天」または「治天の君」などと読んでいます。治天になった鳥羽上皇は崇徳天皇を遠ざけます。まず、弟の近衛天皇に譲位させます。近衛天皇が若くしてなくなると、次の天皇は崇徳天皇の子供の重仁親王となる見通しでしたが、鳥羽上皇は崇徳天皇と近衛天皇の間の子供、後白河天皇を即位させました。これによって、鳥羽上皇と崇徳上皇の対立は決定的になります。
そして、1156年。鳥羽上皇がな亡くなると、崇徳上皇が治天の地位を目指して後白河天皇に対して武装蜂起しました。世に言う保元の乱です。しかし、所詮は反乱軍、崇徳上皇方はあっさりと負けてしまい、上皇は讃岐に流刑となりました。

もう一人の隠し子
実は白河上皇には、もう一人隠し子がいました。NHK大河ドラマ『平清盛』を見ていた人はすぐにわかるかと思います。そう、平清盛その人です。隠し子であるので、当然確たる証拠は無いのですが、当時から平家の御曹司は白河院の胤であるとの噂があったそうです。
これこそ、僕がこの一首を政治的に見たくなる理由です。「同じ白河院の子として生まれ、今までは別々に生きてきたけど、今こそ力を合わせるときだ」という崇徳上皇から平清盛へのスカウトメールなんじゃないかと思っているのです。そういう見方をすると、この歌が別れた女性への未練を歌った弱弱しい歌から、決起にあたって同士を募る勇ましい歌のように見えてきます。「瀬を早み」「岩にせかるる」といった表現が非常にスピーディーかつ力強い表現のように見えてくるのです。
とはいえ、これは僕の完全な思い込み、はたして真実はどこにあるのか。もっと詳しい人に機会があれば聞いてみたいですね。

祟と徳
さて、この崇徳院ですが、「祟」に「徳」という字が入っています。このネーミングには非常に深い意味があるのです。そもそも、崇徳院は保元の乱に破れ、犯罪者として讃岐の地に流されたわけですから、無くなった後も諡号や追号が贈られることはありませんでした。そこで、当時の人は流刑先にあわせて「讃岐院」と呼んでいました。ところが、この讃岐院、死後は怨霊となって大暴れします。保元の乱に関与した人々が次々の不慮の死を遂げたり、平家打倒の動きが広まり社会不安が増加したり、これらは讃岐院の祟りだと恐れられました。そこで、後白河上皇は讃岐院に対して罪を赦免し、改めて「崇徳院」として追号を贈ることにしました。
「徳」の字は流刑や政争に破れた結果として、遠く離れた土地で無くなった天皇に贈られました。ほかには、平家とともに壇ノ浦に入水した安徳天皇、承久の乱で敗れて佐渡で無くなった順徳院、古くは中大兄皇子(のちの天智天皇)との政争に破れ置いてけぼりにされた孝徳天皇などです。天皇の名前を見て、「徳」の字が入っていたら、それは悲しい最後を迎えた天皇だということがわかるようになっています。

追号の変更
讃岐院が崇徳院になったように、後世になって追号が変更になった天皇は実は結構な数存在します。しかも、その多くは近代になってからでした。以下に追号に変遷のあった天皇をリストアップしました。

■没後しばらくして改名
崇徳天皇(1164年没):讃岐院→崇徳院(1184)
後鳥羽天皇(1239年没):顕徳院→後鳥羽院(1242)
順徳天皇(1242年没):佐渡院→順徳院(1249)

■明治以降に改名または新規に天皇として認定
弘文天皇(672年没):大友皇子→弘文天皇(1870) 天皇として認定
淳仁天皇(765年没):淡路廃帝→淳仁天皇(1870
仲恭天皇(1234年没):九条廃帝→仲恭天皇(1870
後村上天皇(1368年没):後村上院→後村上天皇(1911) 南朝を正統として天皇認定
後亀山天皇(1424年没):後亀山院→後亀山天皇(1911) 南朝を正統として天皇認定
長慶天皇(1394年没):なし→長慶天皇(1926) 天皇として認定

明治になって、南朝方を正統王朝としたこと、歴代天皇の系譜を抜け盛れなく完成させたことで多くの天皇が新たに生まれることにもつながりました。ということは、またいつか、政治体制の変化によって「やっぱり、この天皇は認めない」なんて話が出てくるかもしれませんね。

今日のおすすめ
崇徳院といえば、大河ドラマ平清盛でARATAさんが熱演してたのが印象的でした。画面が汚いなんて評価もありましたが、近年の大河の中では傑作に入る部類かと思います。
平清盛



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