百人一首54 忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの命ともがな

百人一首(Wikipediaより)

シンプルに読めば恋の歌ですが、その裏には摂関政治全盛期の藤原氏内部での熾烈な権力争いがありました。この「儀同三司」とは准大臣に相当する中国の役職名です。息子の藤原伊周が准大臣だったことから、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)という名前が残ることとなりました。

忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの命ともがな
儀同三司母



内容
この歌は現代語訳が非常にしやすく、古文に馴染みのない方でも分かりやすいかと思います。「ずっと愛してるよ、なんて新婚の今はそういうかもしれないけど、未来の事なんて誰にもわからないから、約束が守られることとないんでしょうね。だから、今の幸せの中で命を終わらせられたらいいのにね」という、新婚のうれしさの中にある将来の不安を表しています。既婚男性からすると、あるある感漂う内容なんじゃないでしょうか?

関白家の盛衰
儀同三司母の結婚相手は藤原道隆という男性で時の関白藤原兼通の甥というエリートでした(とは言っても、兼通と父兼家の仲が悪く冷遇されてたみたいですが)。そんな身分の高い人から口説かれたからといって浮かれていると後で痛い目を見るかもしれないという自分への戒めで、この歌を作ったかもしれません。
藤原道隆はその後出世を重ね、関白に就任しました。儀同三司母の子供たちも順調に出世を果たし、娘の定子は一条天皇の中宮(皇后)として入内するなど、道隆の中関白家はいよいよ隆盛を極めることとなりました。もちろん、夫婦仲も順調で本人の憂いをよそに「行く末まで」仲むつまじく暮らしました。
しかしながら、それでめでたしめでたしとならないのが歴史の恐ろしさ。
道隆は僅か42歳でこの世を去ることになるのです。道隆の跡を継いだのは子供の伊周でなく、弟の道長でした。摂関政治の黄金期を築いた藤原道長は教科書にも登場しますので、みなさんご存知と思います。そして、道長との権力争いに敗れた中関白家はみるみる衰退していくのです。そんな晩年の儀同三司母は、この一首をどんな思いで振り返ったのでしょうか?

伊周と道長の争い
藤原伊周と藤原道長の争いは主として後宮を舞台に展開されました。儀同三司母の娘定子が一条天皇の皇后として入内していたにも関わらず、道長は自分の娘彰子を二人目の皇后として入内させるという前代未聞の行動に出ました。こうなると勝者は一条天皇の皇子を産んだ方ということになります。
ところが事態は思わぬ方へ進みます。なんと息子の伊周、隆家が女性をめぐって花山上皇を襲撃したのです。両名はこれにて犯罪者となり、責任を感じた定子は出家してしまいま。
まさかの結末に道長も呆気にとられたのではないでしょうか?この中関白家はどうも気が短いようで、またも事件を起こすのですが、それはまた次の機会に。

女流文士全盛の時代
一条天皇の後宮は定子と彰子の両皇后を中心に宮廷サロンが華やかな時代でとあり、多くの女流文人を生み出しました。百人一首でも、この時期の女性の歌が残されています。
中宮定子に仕えていたのは枕草子で有名な清少納言ですし、道隆の父兼家の側室てある道綱母も百人一首に収録されています。
ライバル彰子陣営のサロンは非常に華やかです。源氏物語の紫式部、当代一の和歌の名手和泉式部、栄花物語の作者赤染衛門、伊勢大輔なとの女流歌人の歌が百人一首に残されています。さらには紫式部の娘大弐三位、和泉式部の娘小式部内侍などもサロンに顔を出してあたかと思います。
ここまで書いて気づいたんですけど、宮中で働いてた女性の多くは自ら子供を持つ母親だったんですよね。今の日本で女性の社会参画を考えるときに欧米がどうこうより平安時代の宮廷をリファレンスした方が説得力ありそうなんじゃないでしょうか?

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