百人一首13 筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる

百人一首(Wikipediaより)

さて調子に乗って第三弾までやってきました。今回は日本の天皇制の変遷を理解する上でも役立ちそうな陽成院の一首です。この一首そのものの出来も味わい深いのですが、なぜ陽成天皇ではなく陽成院なのかを知ると日本史にもっと興味がわくかと思います。
筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
陽成院

内容
この歌は比較的シンプルな内容です。筑波山の男体山、女体山および、そこに流れる男女川(みなのがわ)を男女の中に見立てた恋の歌で、「筑波山に流れる男女川が小さな水滴が溜まって川になるのように、私とあなたとの間のちょっとした思い出が積もって、今では想いが深くなりました」というとてもストレートなラブレターです。婚約者に宛てた一首ですので10代後半頃の青春味付けあふれる一種です。とまぁ、この歌だけ見ると普通のラブレターなわけですが、この背景を知ると益々面白い一首なのです。

ネオニート
この歌を歌った陽成院は「人生始まったと思ったら終わってた」という人物です。わずか9歳で天皇となったかと思ったら政局に翻弄されて15歳で譲位を迫られます。15歳といえば現在では中学3年生、ちょうど自分の将来の進路などを考え始めたりする頃ですが、すでにそのときに隠居生活を余儀なくされました。後を次いだのは大叔父(祖父の弟)の光孝天皇55歳です。以後、80歳で崩御するまで65年間もの間、上皇として隠居生活をしていました。この上皇在任期間は歴代天皇の中でぶっちぎりのトップです。
陽成院は結婚したもの隠居してからです。この一首が譲位前か後かは、僕の不勉強で知りませんが、元服後であったのは間違いないと思いますので譲位が現実的だったことは間違いないと思っています。そんな、陽成院の婚約者はなんと光孝天皇の娘でした。自分を追い落とすことで傍流から天皇位に昇り詰めた男の娘が婚約者だったわけです。しかも思春期の面倒くさい時期に。きっと、最初は反発していたかと思います。そんな陽成院ですが、婚約者との思い出を少しずつ経ていく中で、ようやくこの歌の境地に至ったわけです。
当時の習いとはいえ、将来性のかけらも無い男と婚約せざるを得ず、その婚約者からは嫌われていた光孝天皇の娘綏子内親王からすると、この一種をもらった時の喜びはいかほどだったかと思います。その後、2人は綏子内親王が薨去するまでの40年ばかりを仲睦まじく過ごしたんじゃないかなと思っています。

天皇と院
さて、この一首を今回取り上げたのは、内容に面白みがあることもさりながら、百人一首では作者を「陽成天皇」ではなく、「陽成院」としていることに注目してほしかったからです。これより前に百人一首に登場する天皇は「天智天皇」、「持統天皇」と天皇がついています。これより後は「光孝天皇」を除いて、「三条院」「後鳥羽院」「順徳院」と天皇ではなく、院が付いています。
○○天皇というものは「諡号」と呼ばれています。諡の字は訓読みで「おくりな」と読まれるとおり、死者に対して、その人の功績をたたえて贈る名前です。その名前付けには、その人の功績が考慮されたものとなります。だから、「天智」「天武」「聖武」といった演技の良い文字の天皇が多く出てきます。また、呼び名の最後が天皇で終わる形式ものを天皇号と呼びます。つまり、律令国家の成立期は諡号・天皇号でした。
一方で、○○院というものは「追号」と呼ばれています。これはただ単に死者に名前をつけただけのもので、その人の住居や墓陵に関連したもので呼ばれます。また、院で終わる呼び方を院号と呼びます。「醍醐」「鳥羽」「伏見」など京都の地名を持つ天皇が多くなります。面白いのでは、歴代天皇には、一条、二条、三条、四条、六条という名の天皇がいるのですが、なぜか五条だけ抜けています。この諡号から追号への変化は、あるときを境にスパッと変わったのではなく、51代平城天皇から58代光孝天皇まの間に徐々に変化していきました。この間の天皇は諡号と追号が混ざっていますが形式としては天皇号となっていました。これが醍醐院から、追号・院号の組み合わせが確立していきました。
で、ここで疑問がわく人もいるかもしれません。なぜ先代の陽成院が追号・院号で、次代の光孝天皇が天皇号なのでしょうか。これは崩御した順番が即位の順とは異なるからです。陽成院は譲位したとき15歳、そこから65年も生き長らえていますから、その間の天皇を崩御した順に並べると光孝、醍醐、宇多、陽成となります。なので、光孝天皇までが天皇号による諡号となり、醍醐院からが院号による追号となりました。
この後、諡号・天皇号が復活するのは、1000年後の幕末、光格天皇の代になります。1840年に崩御した光格天皇は宮廷文化の復活に熱心な天皇であり、諡号も1000年ぶりに復活させました。当時は幕末で日本近海に多くの外国船が出没している時期であり、国際関係における危機感から日本の良さを再発見しようという流行のある時期でした(今の日本に似ていますね)。そんな中で1000年ぶりに復活したのでした。
そんな光格天皇肝いりの諡号復活もたった3代でおしまい。明治天皇以降は元号を持って追号とするということになり、再び追号の時代となりました。なお、明治といえば維新開国、欧米化の印象が強いですが、一世一元と呼ばれる君主の在任期間中には年号を改めないというルールはお隣清国から輸入したアイデアとなっています。
さて、ではなぜ現代ではすべての天皇を院号ではなく、天皇号で呼ぶのでしょうか。これは、大正時代に「すべての追号も院号ではなく、天皇号にする」とお上が布告したからです。なんと、20世紀に入ってから、過去の天皇含めて追号を改めたんですね。なので、古典を読む際に、天皇は多くの場合は院号で呼ばれているということを理解していくと良いかと思います。
この、明治以降の天皇の名称の変遷については、次回記事にしたいと思います。今の歴代天皇が決まったのって、結構人為的な作業があったんですよ。

2 件のコメント:

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  2. >自分を追い落とすことで傍流から天皇位に昇り詰めた男の娘が婚約者だったわけです。

    この時実権を握っていたのは藤原基経で、陽成天皇の母親は自分の実妹高子でした。一方時康親王(光孝天皇)の母沢子の父(時康親王の外祖父)である藤原総継は藤原氏の中でも官位の低い傍系で、しかも既に亡くなっていました。この時点で基経が陽成天皇から藤原氏との関わりの薄い時康親王に皇位を移さなくてはならぬ積極的な理由はなく(退位の理由は陽成天皇のご病気、或いは宮中でご自身の乳兄弟に手を掛けられたからとも)、皇位を継ぐにはやや年を取りすぎていました。つまり「他に適当な候補が見当たらなかったから次の(藤原氏にとって都合のよい)候補が見つかるまでのつなぎ」であったと推測されます。これは、光孝天皇が即位に当たって自身の男子を皆臣籍に下しているところからも、光孝天皇ご自身がそれを弁えていたことまで伺えます。

    まとめますと、この当時(文徳天皇~光孝天皇)の実権は天皇にはなく、藤原氏がそれを握っていた、そしてキングメーカーとも言える基経は天皇としての資質が疑われた陽成天皇を退位させることにした、しかし藤原氏にとって都合のよい皇族が見つからなかったので時間稼ぎとして、もういい年だった時康親王(光孝天皇)を選んだ、と。

    ということで上記の「自分を追い落とす」云々の記述は、恐らくですが怪しいだろうと思われます。

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