百人一首76 わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波

百人一首(Wikipediaより)
昨日紹介した意識高い系僧侶慈円の父親藤原忠通の一首を紹介します。名前が長くてぱっと見誰だか分かりませんが、書道をやってる人にはピンとくる名前じゃないでしょうか。

わたの原 漕ぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
法性寺入道前関白太政大臣


内容
「わたの原」で始まる歌は、この歌の他に参議篁のものがあるので、学生時代に記憶に残っている方も多いんじゃないでしょうか?この「わたの原」とは大海原の事です。
歌の内容は「大海原に船を漕ぎ出してみると、沖に見える白波がまるで雲のようだ」という非常にのんびりした一首です。ところが、この歌を歌った関白藤原忠通はとてもでは無いですが、こんなのんびりとした人生を送ったわけではありませんでした。
保元の乱、平治の乱という数百年ぶりに発生した京都での戦乱の中、摂関家の苦境を生き抜いた人物です。この歌は崇徳院の歌合にて披露された一首といわれています。その崇徳院は保元の乱に敗れて忠通らによって讃岐に流刑となります。もし、流刑に赴く崇徳院に対して贈られた歌だとしたら、忠通の心の闇が滲み出てる感じがしてきて恐ろしくなります。

摂関家の苦境
さて、藤原忠通の生きた時代は藤原道長の摂関家全盛の時期が終わり、白河院・鳥羽院ら治天と呼ばれる上皇が権力を握った時期でした。忠通も関白の地位にありましたが、往事ほどの権力はありませんでした。
そんな中、時を同じくして天皇家と摂関家に後継者争いが発生します。鳥羽上皇の長男でありながら、実は白河院の子供と噂された崇徳院と、崇徳院の同母弟で鳥羽院の寵姫美福門院の養子となった後白河天皇とが鳥羽院亡き後の治天を争ったところに、藤原忠通と弟頼長の藤原氏長者の地位の争いが絡み合いました。忠通は父忠実と弟頼長と対立します。
そして、鳥羽院が亡くなると崇徳院は藤原頼長と共謀して反乱の烽火を上げました。貴族同士の争いとはいえ、戦争になれば実際にモノを言うのは武力です。源氏と平氏がそれぞれ両陣営にバラけて戦いました。
戦闘は後白河天皇陣営の勝利に終わりましたが、藤原忠通の苦難はおわりません。なにせ、藤原氏の頭領である父忠実が謀反人の扱いとなり、数多ある藤原氏の所領や荘園も没収の危機にありました。これを機に摂関家の経済基盤を切り崩したい新興貴族からのプレッシャーから所領を守る政治の戦いが続きました。
保元の乱は名目上でみると後白河天皇、藤原忠通の勝利でしたが、実際には武士の勝利と呼べるものでした。以降、政局が混乱して武力を必要とする機会も増えました。結果として、平清盛が台頭して摂関家の地位を押しのけることとなりました。そして、源頼朝が鎌倉に幕府を開いたことで、貴族の時代は幕を閉じ、武士の時代へと移っていきました。

法性寺流の創始者
政治の世界では衰退期にあった貴族社会ではありますが、文化面ではまだまだ発展を遂げていきます。藤原忠通は老後には法性寺に居を写しました。今の東福寺になります。なので百人一首では法性寺入道という名前で紹介されています。
この忠通は書の名人として知られており、彼の書風を引き継いだ流派は法性寺流と呼ばれています。僕は書はやらないので、何がどうすごいのか分かりませんが、すごいそうです。
日本では彼より以前の書道の名手として三蹟と呼ばれる小野道風、藤原佐理、藤原行成の3人があげられます。このうち、藤原行成といえば清少納言の友人で、「逢坂の関」をあけてほしいと冗談言ってた人ですね。もっと遡ると日本の書道は遣唐使がもたらした王羲之の書風に強く影響されていました。
一方で鎌倉時代になると禅宗とともに宋の四大書家と呼ばれる蘇軾、黄庭堅、米芾、蔡襄らの書が伝わり、日本の書道にも大きな影響をあたえました。
平安時代から鎌倉時代への変化というと貴族から武士へという政治権力の移管を中心に語られる事が多いのですが、禅や浄土宗などの宗教変革、書道、朱子学、建築様式など文化面でも大きな変化がありました。これら文化面の変化が社会構造にどう影響を与えたのかはもう少し深く理解したいですね。

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とめはねっ(1)



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