イスラム国を巡る国民国家(Nation State)の誤解

イスラム国に関する報道やネットでの言論を見ていて気になった点があります。
それは、中東諸国を国民国家だという前提で捉え、
シリアでの紛争を「内戦」ととらえたり、
イスラム国の動きを「イスラム過激派」と表現することです。
日本では中東の歴史をあまり学んでいないから仕方ないことですが、
そもそも議論するにあたっての前提がズレているような気がするので
ブログにまとめてみました。


そもそも、中東の国々の多くは国民国家ではありません。
という歴史について理解するにあたってのスタート地点は第一次世界大戦です。

第一世界大戦まで、この地域はオスマントルコのものでした。
とはいっても実態は現地の首長たちが半独立した権力を持っており
オスマントルコという大きな括りの中で暮らしていました。

日本人にとってイメージしやすくするには
幕末のころの日本に当てはめてみてください。
薩摩や長州がクウェートやバーレーンであり、
オスマントルコが徳川幕府です。

第一次世界大戦でトルコと敵対したイギリスやフランスは
在る事無い事、うまいことを言ってアラブ人首長をたきつけ
オスマントルコに反旗を翻させました。

戦後、クウェート、カタール、バーレーン、UAEといった
ペルシャ湾岸の国の首長たちは、イギリスから所領を安堵され
イギリスの保護国となりました。

問題は中東のど真ん中の地域です。
この地域はイギリスとフランスが結託して
南北に2つにわけてしまいました。
これを「サイクス・ピコ協定」といいます。
そして北側のレヴァントと呼ばれる地域がフランス領になりました。
今のレバノンとシリアです。
なので、シリアの南側は国境線を見ると、一直線になっている場所があります。
アフリカなんかと同じですね。列強の都合で分割されました。

日本で例えると、徳川幕府と英仏が戦争になったので、
薩摩や長州が徳川を裏切って戦った。
結果として九州や四国の大名の所領は安堵されたけど、
本州はイギリスとフランスに東西で分割されてしまった
という事をイメージしてください。

でフランス領の方は、いくつかの地域に分割されました。
中でも地中海に面して交易の重要拠点となるベイルート一帯は
フランスにとって統治しやすいキリスト教徒の多い地域を
レバノンとして分割する事にしました。
これは、これまで中東で少数派として暮らしてきた
キリスト教徒にとっては喜ばしい出来事でしたが
国民の半数を占めるアラブ人にとっては
自分たちの地域がいつの間にか別の国になってしまったのです。

日本で例えると、北海道にはアイヌが多いから
北海道だけ別の国として分割されてしまったイメージです。
国語はアイヌ語、国のトップもみんなアイヌです。

結果、レバノンに住むアラブ人は自分たちをレバノン人とは認識せず
レバント(あるいはシリア)に住むアラブ人だとの認識を強めました。
つまりレバノンは国民国家ではありませんでした。

残りの地域もまずは3つに分割され、そこから更に2つの地区ができました。
このうち、トルコ人が多く住む地域はトルコへ編入され、
残りの地域が合併してシリアとなりました。

つまり、シリアという国はフランスがオスマントルコから得た土地のうち
レバノンとトルコに編入された土地を除く「その他の地域」となります。
なので、この地域に住んでいる人たちにシリアを自分たちの国と認識する
何の目印も存在しないことになります。

そのため、フランスが撤退した後に残ったのは
シリアという地域に住む幾つもの部族です。
彼らの間には「同じシリア人」という感覚はなく
「異なる部族」という排他的な関係です。
彼らがシリアの政権の椅子を巡って争う事になり、
そして今でも争っています。

なのでシリアでの紛争は決して「内戦」ではなく、
部族間の「外戦」と捉えた方がより適切だと考えています。

日本で例えるなら東北地方をまるっと「東北国」として独立させたら
仙台藩と南部藩が政権争いで戦争している感じです。
戦国時代だったら内戦とは誰も思わないでしょ。

で、イギリス側の地域はどうなったかといえば、
こっちは元々の首長をそのまま所領安堵していたので
あまり問題は起きていなかったのですが、
一つだけ泰問題がありました。
それがワッハーブ派のサウード家です。
イギリスの領域として認められた地域で、
他の首長国にどんどん攻め込んで国土を広げていきました。

そのとばっちり受けたのがメッカやメディナ太守のハーシム家でした。
第一次世界大戦中にイギリスのために一番活躍したのハーシム家です。
なぜなら、戦後にアラブ地域の主権者として君臨するつもりだったからです。
なのに本拠地を取られてしまいました。
仕方がないのでサウード家が支配していない地域にハーシム家を封建しました。

ヨルダンとイラクです。
今のイラクは北部にクルド人、中部にスンニ派、南部にシーア派が住んでいますが
イギリスから見れば、みんな同じイスラム教徒です。
この土地をまとめてハーシム家の領土としていまったのです。

日本で言うと、薩摩藩がイギリスに協力してくれたけど
江戸幕府との戦争後に熊本藩に薩摩を取られちゃったから
大阪から東京の間を「大阪国」として島津家にプレゼントして
首都を京都に置いたような感じです。

ということで、イギリスとフランスの都合で勝手に国家が分割されました。
それに対抗して、アラブを再び再統一しようという動きが第二次世界大戦後に出てきます。
それが「バアス党」です。この党はイラクの独裁政党として有名ですが
シリアの政権与党もバアス党です。

一時期、エジプトとシリアがアラブ連合を結成し、
それに呼応してイラクでバアス党によるクーデターも起きましたが
結局はバアス党同士での権力闘争があった結果、仲たがいしてしまいました。

そうした権力者同士の争いの中で力を伸ばしてきたのがワッハーブ派です。
ワッハーブ派はサウジアラビアの王家の支持によって勢力を拡大しましたが
湾岸戦争以後は国家の保護を離れた拡大を見せています。

ワッハーブ派やシーア派というと宗教的な違いに見えてしまいますが
イスラム教は現世社会での行動規範を重要とする宗教ですので
派閥の違いとはイコール権力基盤や政策の基本方針の違いだったりします。

ワッハーブ派は中東地域が欧州列強に浸食された時期に生まれました。
「イスラム地域がキリスト教徒に侵略されているのは
 自分たちがクルアーンやシャリーアをきちんと守っていないからだ」
という考え方です。
これにはイスラム教創立期の逸話があり、
敵に攻められて寡兵だった初期のイスラム教徒たちは
神の教えをきちんと守っていたからこそ
不利な戦争に勝利することが出来、
世界にイスラム教を広める事ができたという事です。

なので、イスラム世界をキリスト教徒から取り戻すには
まず自分たちがイスラムの教えを厳密に守らなければならない
と言う事です。
そして、それを実践したサウード家はアラビア半島をほぼ統一し、
地域での大国を打ち立てたという事実があります。

僕の私見ですが、イスラム国の恐ろしさは
バアス党から受け継がれた汎アラブ主義が
ワッハーブ派と結びついたことにあると考えています。

彼らが勝てば勝つほど、彼らの正しさを証明することとなり、
武力だけではなく、理論の上でも彼らに勝つ事が出来なくなるのです。

というわけで、中東問題を見るときは今の国境線を無視して
地域全体の動きを見た方が事象を見誤らない
と僕は感じています。

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